誰にも言えない秘密
さて、秘密とな。ここでだけにしても既にいろいろと出してしまっている。まだ伏せていることは多くはない。残る「秘密」は、デリケートな心情的要素に関わるものと、茶番であるくせに物騒なもの、迂闊に文言組立してしまうと人の「観」に良くない影響を及ぼしかねないものくらいだ。
私には、いろいろと「くっきりした境界線」が無い。
人という存在が、肉体を纏っていようがそうでなかろうが、ほぼ同じに対応する。
人の身体の形と中身の姿が違っていても同じでも、全く気にならない。私自身、身体の形は女性だが中身はどちらでもない。形に抵抗感は全く無い。必要に応じて中身は行き来する。断っておくが、これはセクシャリティの話ではなく、エネルギー性質の表現の話だ。
地球上のことと地球の外のこともあまり区別しない。地球上の現実に独特なものはその限りではない。同様に、時間の前後配置もただの目安として見ている部分がある。
「ガイドスピリット」という友が在る。海のディーバだ。少なくとも“前の人生”のときから同一の友だ。
ワタシハリュウノウカラノモノダ…
先日にも書いたが、私が正直かつ誠実に、私に見えているものを言葉にすれば、キチガイ認定されることウケアイだ。しかし人間として焦点を顕しているから、私は普通に真っ当に人間であり、それ以上でも以下でもないのも間違いない事実だ。だからといって個人的な「観」や行動やわざについて、所謂「普通」というぼんやりした“制限の観念”につきあう義理も謂れも無い。
「誰にも言えない秘密」というよりは、「均質的でないが故に誰にも伝わらない、自分の真実」だ。
皆自分なりの象徴を自分なりに持った事象認識をしているし、それが当たり前だ。私がここに書くことも、実は秘密でもなんでもない。でも、誰が信じる? 自分の目には見えないものごとを。それぞれが見ている事象象徴の「本質」だけが共通の事実たり得るのに、物理的に肉眼で見える上っ面の共通性ばかりを物差しにしている人間の意識に、どんなものも響きはしない。再び断言するが、私が「統合失調症」の診断を受けることなんか簡単だ。おおまじめに正直に誠実に、私に見えているものごとを「精神科の医師」に話せばいいだけだ。
つまるところ、深度のあるコミュニケーションができる人間関係では秘密になるものは無いだろう。思いやりによって伏せられるもの以外は。
「秘密」が実は秘密じゃないなら、秘密を秘密たらしめる問題の核は「ハートがオープンかどうか、その人間関係の質による」だけだ。
あなたはあなたの大切な人の、「秘密」を解いて秘密じゃなくするオープンさを持てるだろうか? それこそ「ウワツラ同調もバレる」こころの土俵でだ。
狭い部屋
子どもの見るアニメは大抵見る。遊んでいるゲームも大抵見る。宿題をしていたり、何か工作して創っていたりも大抵見る。部屋が狭いから、視界に入らないことがほとんど無いのだ。そのおかげと言っては何だが、大人的注釈のあった方が良いようなアニメ等(例えば『推しの子』など)の、強すぎるインパクトに理解のための枝を付けることや、オンラインゲームで遊んでいるときの反応に、ある程度の方向性を持てるように試みること、YouTubeで見ている動画の内容にひとこと言ってみたりもできる。オンラインで遊んでいる学校の友達が誰かということも、聞かずとも判ってしまうのだ。干渉しないが把握はする。ネットやサーバー内は「イマドキの注意エリア」でもあるから、ちょうど良いと言えば、ちょうど良い。
それぞれなのだろうけれど、「ちょうど良い広さ・狭さ」があると思う。狭すぎる部屋で無理に暮らせばストレス昂じて良くない心理状態になるし、広すぎる部屋は寒い感じがしそうだ。何より使わないスペースとか管理するのはちょっと。
自分の感覚としてはどうなんだろう。今暮らしている部屋は狭いのかな…いや、たぶんこのくらいだからなんとかなっているんだろう。たぶんね。
失恋
いまのところ失恋したことない。
振り返ってみると恋らしい恋など若い時分にはなかった。それに、「破れなければ失恋とは呼べない」という感覚もある。
愛情というものはいろいろな人間関係にある。
毎日、喜んでは心破れるなかで育ったから、軽く柔らかくふんわりしてるような恋をする次元にいなかった。暴力への恐怖感が根深くあった側面もある。私はサバイバーだ。とにかく余裕の無い心理状態で、一言で表すことが今もって難しい人間関係フォースにまみれていた。
そんなわけで、本日のお題「失恋」に相応しい経験が無いのだ。これはこれで如何なんだと思いもするが、まあ人にはそれぞれ得手不得手がある。うん。
正直者が馬鹿を見る、という言葉は昔からよく聞く。じゃあ嘘つきは満たされた幸福にまっすぐ入ることができるかというと、私の見回した限りでは、そうじゃないようだ。どちらが良いのかヒジョーにビミョーだ。
さて、「正直」。
自分自身に正直であることは結構だいじだと思う。自分は何に取り組むのが楽しいか、どんなふうに暮らしたら気分良くいられるか、そういったことは自分にしかわからない。自分で自分の正直な気持ちを抑えてしまったり、さらには封じてしまったり、あまりにそれを積み重ねると、麻痺のような状態になる。そして、「自分の心は何も喜ばない」などと、真実じゃない評価判断をしたりする。
生まれてこのかた一瞬たりとも自分に誠実じゃないときがなかった人など、たぶんいない。生きる場所をなくさないための方策として、自分を守ろうとして、精いっぱいの選択をしてきた結果だ。私にも覚えがある。
さて、この側面で「正直」でいると、何かをなくすだろうか。やってみなければわからないことだ。小さなことから正直に反応してみるのも良いかもしれない…意外なくらい、正直な自分はこの現実に受け入れられるかもしれない。
小さな試し。でもきっと、大きく息ができるようになるために大きな踏み出しだ…
梅雨……、うん、ブラキストン・ラインの北に暮らしてきたから、梅雨のいろいろがわからない…
でも、ここで皆様が梅雨のいろいろを書いて下さるので、なるほどと思いながらちょびっともの知りになれる。そういえば、昔「木綿屋七つ梅」というお菓子を食べたことがある。赤紫蘇でくるまれた梅。平たく言って、すんごく美味しい。すんごく美味しい。