郡司

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4/16/2024, 1:52:57 AM

ダークブラウンのアーガイルカーディガンにスラックス、しれっと柱横に立つ人。無表情だが平和な雰囲気。しれっと出るのは久しぶりだ。前は暗い色の服で箪笥の前に座っていたけど。伝えたい、「平和で清明なオーラが滲み出てますよ、よきかな」と。

私がかなりシビアな苦境にあると、しれっと出て、すぐ消えるが、何か「よきもの」を響かせるのか、状況が少し良くなる。座敷童みたいな作用だけど「わらし」じゃない。すごいな、と思うのは、問題の中核になるものを正確に、一瞬でフォーカスしてしまうことだ。…座敷童おじさん、小さくて大きな突破口が開いたかもしれません。本当に、ありがとう。

さて、たぶんこれ、「届かぬ想い」じゃないんだろうなと思う。座敷童おじさんは喋らない。だから私も非言語的コミュニケーション(telepathy的な)が基本だが、……あれ? 「届かぬ」…お題……まあ、こんな時もあるさ。

2024年4月16日 午前

4/15/2024, 2:34:26 AM

小さな子ども達が神様に宛てて書く手紙は純心で、時々心が痛い。もっともで素直な祈りや「どうして?」が、たくさん見受けられる。

神、という概念には、人それぞれの考え方があるものだろう。それはそれで良いと思う。私などは仏教と神道がわかりやすく感じる。生活の中にいつもあるからだ。仏教は「神」という概念は無い。「仏性」を顕すため「解け」て迷いから「脱する」ための叡智が説かれる。神道は端から「青人草」も「ミコト(命)」と観じ、存在の本質に翳を見ない。

父はキリスト者だった。が、教えと当時の教会組織のありようの乖離に納得できず、離れた。今でも聖書は読んでいるようだ。環境のせいもあって、私も小学生のときから聖書を読むことがちょいちょいとあった。関心引かれてやまないのは創世記だ。

聖書の中に「原罪」という文言は無い。
あくまでも個人的見解だが、私は、アダムとイブはエデンを追い出されたのではなく、自分たちで出たのだと思う。創世記は「世界と個人の意識展開」が、一点を基に始まる幾何学レベルから述べられているように見えるからだ。世界じゅうで、神話に類するものの多くは例えで語られている。

さて、「神」の概念に纏わる、人間の矛盾した思考・行動はたくさんあるように思える。神が全知全能なら、“失敗作”など創らない。世界を歪に創ったりしないし、人間を愚かに創らない。創世記の神は、創造を確認して「すべてよし」と言ったのだ。神が創った完全ならば、絶対。…なんでしょ? なのにどうして…と、神様に手紙を書く子ども達と同じ疑問が出る。

創世記によれば、神はアダムに自分自身と同じ能力を与えた。アダムの肋骨から分けられたイブもしかり。それは「自分の世界を展開する能力」だ。創世記で神もやっている。どんな世界を自分の周りに展開するも自由、ジャッジなし。神は「アダムの世界」を裁かないから。ただ、問題がある。すでに完全である「エデン」には、アダムの「独自性」を展開する余地がない。さあ、イブと一緒にエデンを出よう…親たる神に与えられた「自己」を展開するために。親からは「完全」を持たされているから、旅の備えは万全だ。それはエデンへ帰還するための導にもなる。アダムがどんな「夢見」を展開しようと、あるいは「夢見の展開」以外を見失おうと、“親の持たせた完全”が損なわれることは無いのだから。恐れず、旅路をゆけ。

聖書も、仏教も、日本神道も、「創造の根元」としてもっている根底理念は同じだと思う。個々の創造は自由だから、「夢見」に闇を顕したりもする。闇のなかでは痛かったり悲しかったりする…

うーん、文字をたくさん使っても、子ども達の「どうして?」にわかりやすく表現できない。
やきもきするぜっ。

4/13/2024, 1:24:44 PM

快晴の眩しさには、大抵コテンパンにやられる。眼の疲れから頭痛になり、肩も凝ってきたりする。

昔、ホームセンターで買い物していて目に入ったサングラスを買った。「日本競歩協会推奨」などというシールが付いていた、スポーツタイプのものだ。紫外線アルファもベータも99%カットなんてシールも付いてた。これでだいぶ楽に過ごせるだろうか…と思いながら、眩しい快晴の日に、そのサングラスをかけて外を歩き、まだまだ元気だった祖父母の家に用事で行った。

「あらあらあらあらあらあら…」
サングラスをかけていた私を見た祖父母の第一声である。…かなり堪えた。…えっ、どんな形のサングラスなのかって? スポーツタイプだってば。顔の形に沿う曲線フレームに、外側から目が全く見えないミラーグラス(樹脂製)で、目に光が入らないようにフルカバーするフレームの形から、横に長い印象の全体像になる。

とりあえず、私がそのサングラスをかけると、「あらあらあらあらあらあら」なんて言われちゃう印象らしい。「そんなに変かな」と聞いてみても、「あらー…」だけ。気になってしまって、きょうだいにもサングラスをかけて「これどう思う?」と聞いてみた。曰く、「お前それはやめとけ。だいたい何処で買ったんだそんなの」ときた。私は静かに答えた。「お前の店だ」と。

結局、どう見えるのか明確なコメントは誰からも得られなかった。ただただ、「うわー…」という雰囲気だけ。快晴の日の、「うわー…」「あらあらあらあらあらあら…」

ほんっと、どう見えてるんだ?

4/13/2024, 5:44:27 AM

遠く遠い。近く近い。遠くて近い、近くて遠い。
空より上は、いろいろ薄い…ごみの多い昨今らしいが。

自分の中に「こんな反応・考えもあるのか」と知った昨日、パズルのピースのいくつかがはまるように腑に落ちることに黙る今日。

人間らしいのは人間だからだろう。
空が遠いとは思わないが、鎖をぶっちぎりたい。

4/11/2024, 1:23:42 PM

らーらーら、ららーら、ことーばに、できなーい………小田和正氏は、私の父と同じ御年だ。

2016年の冬、テレビから聞こえてきたその歌に、祖母は「きれいな、良い歌が聞こえるな」と言った。
「あなたに会えて、本当によかった」という文言がしみる歌だな、と思う。

さて、言葉にできない想いや概念は、たぶん多い。
どんなに言葉を尽くしても、言葉では核心の周りをぐるぐる回ってしまうこともある。

例えば、どんなに愛しているかを伝えるのは言葉以外の方法もいくつかあると思う。先日のお題じゃないが、瞳の内にそれが静かに確かに顕されるとき、それは言葉を絶している。感情的に波立ち過ぎて言葉にできないというのではなく、言葉よりも「明らかな表出」だったりするのだ。これは「心から発する響き」がほぼ直接的に顕れるものだから、誰彼構わず出るようなものではない。

他には、想いが膨大過ぎてすぐ端的な言葉にはできないとか、何かの説明を試みようとしたら手短にするべきでないことに気づいて言葉に窮するとか…これは「言葉にできない」のとは違うな…

まさに「行間を読むべし」というものなら仏教経典はそのようなところがたくさんある。「脳ミソで考える」ところを凌駕しているが故に、「脳ミソよりも深いところで掴む」しかない部分だ。理解ができても、言葉に組み上がらない。

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