スマイル
ここ半年ほど、なにかと「認知症」の祖母が微笑む。まさに「アルカイックスマイル」という表情だ。目の光もとても平和に澄んでいて、見るたび目を奪われる。もともと表情豊かな人だが、この微笑みは新しく、美しい。
自分はあんなふうに微笑むことができるだろうか。私の中にはまだ「澄んだ平和の喜び」は多くない。
あの微笑みを見ると、「笑顔は贈り物」ということがまごう事なき真実だとわかる。それがたとえ、はっきりと自分に向けられたものでなくても、あの微笑みは豊かに広がり響くからだ。
いつか、あんなふうに微笑んでみたい。それを湧かせる心持ちを体験したい。
もしかして、あと半世紀を生きないと掴めない心持ちだろうか。なにせ祖母から見れば、私はヒヨッコのペーペーだ。「五十年早い」だろうか。
今の私ときたら、焔を湧かせて一仕事なして、一段落したら破顔でぶっとばすようなありさまだ。「稚い」と揶揄される程度。…伊達じゃない年寄りってすごいな…
どこにも書けないこと、かぁ…
確かにこの場所は非常にローカルな感じの「書き処」ではある。SNSみたいに自己顕示欲抑圧バーストがそこかしこに火を噴いたり、互いに燃料をぶつけ合ったり、捻じ曲がった都合に「良さげな仮面」を被せて餅のように撒いたり、「AIの学習材料欲しがってる奴に皆の投稿を勝手に売るけど文句ないよね?」とかすごく遠回しに漂わせる運営者も居ないようだ。ここは良い場所だと思う。本当だ。
「言論の自由」は一応、法律で保障されてはいるけれど、さりとて素直に思うことを書くのも、注意深く場所を選ばなければ、何気ないことばがたくさんの「意図」や「無責任」に捏ねくり回された上に「バケモノ」のような様相を呈したりすることも、悲しいかな珍しくない。
みんなヒマなの? 寂しいの? 自分自身の心や定義に穴でも開いていて、それを埋めるために、他の人のことばを「どつきまわす」の? これまでにやってきた同様の事々は、そのこころを癒したの? 「自分はこれで良い」という「確信と赦し」を掴めたの? なにしてるの? 生きる時間は限りがあるよ?
…なんてことも、ここでしか「うっかり」書けない。
みんなそれぞれ、何かに気づいたり吸収したりするには、「ジャストなタイミング」とでも言うべきものがあるから、同時に同じことばが同じように栄養にできるとは限らない。誰が誰より、なんてこともない。それぞれだ。そして、それでいいのだと思う。
時計の針…
私が子どもの頃は、見かけるのはほとんどアナログ時計で、秒針の音が大きいものも多かった記憶。秒針の音の間隔がだいたい正確に頭の中でカウントできる人が、私の周りではたくさんいた。時計の存在感は大きかった。静かな場所で存在を主張する秒針の音があったから。
祖母の実家には鳩時計があって、秒針の音は静かだったけれど、そのぶん鳩が出てくる時はけたたましかった。初めて鳩時計の鳩が飛び出す時間に居合わせた時は本当にびっくりした。二本の鎖の下端に、松ぼっくりを象った錘が付いているもので、「おしゃれな時計があるな」ぐらいの感覚だった。鳩時計の挙動にビクついたら、祖母が「鳩時計、っていうものだよ。時間で鳩が出てくる」と教えてくれた。
そういえば、時計の針自体が自分の間近に無くなっている今日このごろだ。若い頃は腕時計を着けて使っていたけど、今は時刻の確認の多くをスマホの画面でしている。自宅の居間にはアナログ時計を掛けてあるけれど、あまり見ない。
暮らしの中での自分と時計の関わり方を考えると、社会システムの動きを測るためだけに使っていると言って過言じゃない。在宅で祖母の介護をしているせいかもしれないが、私の生活は「半真空パック」のようだ。子どもの学校にまつわる行事等がなければ、割と「社会という外の世界」から隔絶気味になる。内的な時間感覚と、時計が示す時間経過とは必ずしも一致するものでないのは誰しも同じだろうと思うが、なんだか時間の流れるテンポが、「外」とずれているような気がしてしまうのだ。
私にとって、時計の針は「社会の動きの目安」に過ぎない。自分の動きや進みの程度は時計の針ではかれるものでもない。「みんなに合わせる」ための「物差し」なのだ。自分自身の内的な時間は、一気にはるかへ飛ぶときもあれば、ゆっくり進むときもある。…だから鳩時計にびっくりしてしまうのかもしれない。
溢れる気持ち、は、ある程度生きているといろいろなケースでイヤでも経験する。まあ、目を閉じ、耳を塞いで、自分自身の課題のある場所を「大回りして避ける」ことをやり続ければ、自分自身の内側の反応に向き合うことも無いのだが、それで「やり過ごせる」ほど、人間の意識は甘くできてない。
これが「よくできてる」というか、「厄介」というか、無視してぶっちぎったつもりが、しっかりべったりと自分に貼り付くようについて来る。平たく言ってしまえば「逃避不可」なのだ。念のため言うが、これは自分自身の内側にある要素のことであって、他者から投げられる理不尽のことではない。自分の中に忘れたつもりで埋めた素朴なねがいは何か? それに対して自分は自分をどう扱っているのか?
いつかは必ず、自分の中に「溢れる気持ち」に向き合うときが来る。
この時期のこのお題だから、多分もっとふんわりした意味合いでの「溢れる気持ち」なのだろうと思うが、「溢れる気持ち」というやつは、喜怒哀楽も愛も感謝も憎悪もある。自分自身の気持ちである以上、自分でその「手綱を捌く」力も必要になる。手綱を捌くというのは“自分の気持ちを抑圧する”という意味ではない。自分の気持ちにシカトぶっこいたりしない、という意味だ。
年取ると涙もろくなる、と、よく言う。はっきり言ってしまえば、「脆く」はならない。あれは人生のいろいろな経験による「感性の拡がり」がもたらす「表現」のひとつだ。思考パターン処理のキャパでは表現しきれない気持ちを涙が表現する。
小さな子ども達が何かに真剣に頑張っているところを見たり、のびのびと楽しそうに、でも全力で振る舞う様子を見たりすると、ボロボロ泣き出す中高年は少なくない。その心に「溢れる気持ち」の根本には、人間愛があったり、深い感謝があったりする。
もちろん、易々と涙を出したりしないように自分自身を律する人も多い。個人的には、時々どこかで、そういう「溢れる気持ちが表現されてる涙」を、素敵な笑顔と一緒に、遠慮なく出してほしいな、と思う。そして更に、自分自身の素朴なねがいにも、同じように「愛や感謝から溢れる涙」を惜しまず注いでほしいとも思う。
生きる年月を重ねることは「枯れること」だという誤解がたくさんあるようだ。どっこい、心の瑞々しさは枯れるどころかますます豊かに拡がりゆくのだ。
腹を括って年取るんだぞ、みんな頑張れ。
kissねえ…
バレンタインが近いからお題がこれなのかな
それ系ろまんちっくは得意な人にお任せする。正直わからないから苦手なもののひとつ。えっ、結婚してただろって? 結婚とkissは関係ない。残念なほど関係ないのだ。個人差と家庭差があるだろうから、みんな違うと思うけど、私には関係なかった。
だから、「いろいろあるんだな」というやつについて書いてみる。日本と海外では文化的基盤が違うから、「えっ」と思うものも聞いたことがあるな…
割とポピュラーなのは「祝福」としてのkissだ。宗教的背景を持っている向きもある。帆船時代のイギリス人ホレーショ・ネルソンは自分が死ぬ時「kissしてくれ」と言ったとか、「祝福してくれ」と言ったとか伝わっている。部下は彼にkissした。そういえば、ジブリの映画「ハウルの動く城」の中で、ヒロインのソフィーがするkissはすべて祝福のkissだった。ただラストシーンだけ、「ろまんちっくな」ものが描かれ…でも描ききらないで終わる。確定の印象だけ持たせて完了。そりゃそうよね、誰かに見せるものじゃないし。周りなんかどうでもいい。だってkissなんだから。
「えっ」と思ったのは「いやがらせ」のkiss。黒川伊保子さんの昔の著作の中に書かれていた(もう絶版かもしれない)。御主人とケンカしたか何かで朝からイラッとしていた、とか記憶している。朝、出勤の支度をしている御主人に、口紅を塗ってからおもむろに、思いっきり濃厚なkissをしたそうだ。御主人が「いったい何だ」という反応をしたので、「いやがらせよ」と言ったと。その著作は脳で感じる情緒と論理性についての本だった。黒川さんは日本の原発の、データベース検索AIの開発者のひとりだ。そのkissが「いやがらせ」たりうる論理も説明されている本だった。このエピソードは、「脳のモード」の話であって、夫婦仲の話ではない。
kissに「自分なり」はあるんだろうとは思う。けどそれを発揮したことはない…。無いんですよ。それが何か?