fly me to the moon という歌ばかり聴いていた時期がある。たくさんの人がいろいろなアレンジで歌っている名曲。
いろいろなところで登場する歌だが、最も印象強いのは「BAYONETTA」というゲーム中で使われたアレンジだ。残念なことに、現在入手できるサントラには収録されていない。YouTube では聴けるんだけどね。
“in another word” と前置きして、I love you と歌われる。さいごにはっきり言っちゃうのだ。
言葉を媒介にするしかないなら、直截的な表現が必要になってしまう。
何の媒介も要せずこころが伝わることってあるんだろうか。大前提として、こころのどこか深いところがつながっている必要がある、よね…?
…と、ここまで考えたら「鳥が先か卵が先か」になりそうな気がした。大切なのはそこじゃない多分。
ところで、love という言葉は国や文脈、立場によっていろいろに使われる。I love の続きが慣用句的に「you」に連想されやすいのも日本ならではかもしれない。「これは愛だー!」とか、「love なのよッ、love!」という表現が、日本では独特のニュアンスを広く包含しているのは確かだと思う。「あいらぶわんこ」「あいらぶにゃんこ」「あいらぶメシ!」などなどの言い方が、フツーに通じる。依存的な意味だろうが、暑苦しいニュアンスだろうが、おバカっぽかろうが、意外なくらい誤解少なく通じる。稀有なところよね…
街へ…出てない。もうずいぶん出てない。所用で久しぶりに出たとき、市の中心部があまりにも様変わりしていて、自分がどこに居るのか考え考え、覚束なくうろうろした。ここ私の暮らす街だよね…?
デパートは皆撤退してしばらく経つ。地元の日銀支店は「この市は2035年には市を維持出来てない可能性が高い」という評価を翻してない。アレだ、幼児や介護に縫い付けられているうちに、「あまずん」とか「なんちゃら書店」とかのりっぱなユーザーになってしまって、地元でお商売していた各位にあまりコミットメントしなくなったんだが、たぶんそのような買い物をする住民も少なくないのだろう。中心部のショッピングモールは、ともすれば外国の方を多く見かけたりする。
ど田舎の街と言っていい場所だ。地勢的に医療と食料品はまったく不足ないが、やはり「専門店」が消えると、昔ながらの質の生活用品が遠くなる。大型量販店では「間に合うもの」は扱っているけれども、「これだよコレ!」と思うものは無い。
茶房が消え、金物店が消え、食器の店が消え、文房具屋が消え、古書店が消え、画材店が消え、印章店も消え、オモチャ屋も消え、模型店も消え、近所の酒屋も店を閉めた。米穀店・八百屋もだ。精肉店は繁盛してるようだけど。専門店にとって存続が難しくなる時代と言ってしまえばそうなのだが、時々思う。「量販店が撤退したら通販頼みか?」とか。
…怖い想像しか出来ないな。生活を支える品物を依存している場所のことを考えると…
「出てみる街」には、「必需品」が極端に少ないのだ。
「ハトにエサを与えるのは優しさではありません」という、小さな看板書きを、15年ほど前に札幌の大通公園の緑地帯で見た。その直後に屋台で焼きトウキビを買ってベンチで食べたんだが、一羽のハトがずっと近くに居た。クレクレ光線出しまくりのガン見で、ずーっと居た。
「お前にトウキビ粒をわけてやるのは優しさじゃないとか看板に書かれてるからダメだよ」と言いながら焼きトウキビを食べる間、僅かかもしれない可能性にハトはブレなかった。すべてのトウキビ粒が無くなると、ハトは静かに去って行った。
誰かがハトに迷惑を被っているのか、それとも人間から食べ物を得ることにハトが慣れて本来の捕食能力を鈍らせることを危惧しているのか、看板文言だけでは判らない。
これが知床の熊相手なら、食べ物なんて絶対ダメだ。最近の観光客は熊に食べ物を投げてやる人も居ると聞く。ホント、ダメ絶対。はっきり言えば、野生の熊に食べ物を与えるという行為は、その熊が殺されるリスクを与えているのと同義だ。人間から食べ物を得た熊は、人間と食べ物を結びつけて覚える。繰り返し人間に接触を試みてしまえば、猟友会のおじさんおじいちゃん達が出動せざるを得なくなり、その熊は撃たれる。そういう可能性を考えることなく、通りすがりに無責任の極みを楽しくやるなんて鬼畜も同然だ。絶対に優しさなんかじゃない。ひとつ言い添えておくが、熊撃ちを喜んでやる人はいない。大抵、命を奪うことに複雑な想いを持ちながら「出動の義務」で実行している。「人間の業というやつだろうか」と言っていた熊撃ちのおじいちゃんもいた。
生態や習性をよく知らないまま、口だけけたたましく動かす「声だけでかい」人も居るが、本当に生きものへの思いやりや優しさを発揮するなら「どちらかが死ぬ」結果につながる行動はしないはずだ。「優しさ」はまんべんなく渡るものなのだから。
ミッドナイトという時間には大抵眠ってない。諸事情あって眠れない日が多い。今ではすっかり「ショートスリーパー」だ。“もののけ”が活発だと昔から言い伝えられる時間あたりもビミョーである。
実際、夜闇は最近、私の味方をしてくれない。眠り休むはずの時間にいろいろと面倒くさいことの対処に追われがちだ…だいたい夜中に覇気全開で退魔作業とか、真っ当に昼間の生活してるのにいったい何の因果だろう?
一日が終わって、あとは眠って休むばかり、なんて思っていたらトラブルの訴え。身が持たんぞ…
あまりの面倒くささに、丁寧な処理を捨てて一気に消し飛ばしたモノもある。一応は人の身なんだから私を矢鱈に使い倒すな、と思うがトラブルの持ち込み主は「覚えてない」。…神様、どうか私にご褒美を下さい。そんなものモノを一切気にしなくて良い、眠り安らぐ夜を。
「たすけて、追いかけてくるよ」
散らす、消し祓う、引っこ抜く、修復する、喰われたエネルギーを補填する、結界する、空間浄化する、経過観察、やっと寝る。やることはだいたい同様。「しっかりしなさい!」とドスを効かせて叱りたいが子ども同然では奏功も望めない。
こういう愚痴は初めてこぼすが、こぼしてみたら仕方ないことも実感する。疲れが取れるわけでもない。力量向上するのも馬力が要る。
ミッドナイトなんて、ろくなものじゃない。トホホ。
安心、それは雨風寒さをしのげる寝床があること。
食べるものに不足の心配が無いこと。外に出るとき身体を適切に覆うものに不足しないこと。つまり生存できる条件を満たせること。健康に翳りの無いこと。とち狂った攻撃性に出会わないこと。そして、自分自身の心身の強さをちゃんと知っていること。
選択できる自由を持っていると知っていること。自分自身の価値は自分が決めるしかないことに自覚があること(他人の言うことは「自分事」じゃないから放っておく)。…平和な世ではこんな感じか。
不安とは、それらの「不足」であることが多い。
けど、もうひとつ大きな要因になるものがある。
「エネルギー齟齬」だ。極端な例えをすれば、江戸時代の人がいきなり現代の空気のなかに入れば、特別何事も無くても不安を感じるだろう。カルチャーショックという次元の話ではない。現代の世界に満ちて流れるエネルギーの質と波のパターンに自分のエネルギーを合わせられない。そして、理由が判然としない不安を感じる。心身共に、「地に足がつかない」感覚は本能的なものだ。「今ここにあるエネルギーを扱いきれない」不安感は軽視できない影響がある。
え、それはどうすりゃ良いのかって?
個人差がものすごく多様な問題だ。「これを本当にどうにか解決したい、それにはヒントや手引きが必要だ」と、本当に思えばちょうど良い何かに出会う。まっすぐ、本当に思えば。
いいかい? 本当に「それが必要だ。だからそれを求める」と、はっきり決意を持って思うんだよ。
もののついでに、ひとりぼっちじゃないことも、わかるようになる。健闘を祈る。「健闘する元気も落ち着きも無いよ」という状態なら、それは自分へのいたわりが不足しているのだよ。いろいろあるものをひとまずとなりに置いといて、自分の頑張りと来し方の道のよろしきを認めて褒めてあげるんだよ。
元気ってのは、そういうところから「ちょうど良いペース」で出てくるもんだからね。それをするときは、「自分てこんなだ、ダメダメだ」とかいう「黒サングラス」も外してポイするのだよ。シビアでフラットな目って、自責じゃないからね。あんなもんを混同しないように。ちゃんと進める。ちょっとずつでも、確実に進んで行ける。だから大丈夫だ。心配の先物買いをする時間があるなら今を検証するんだ…
と、上の子どもにはたまに言う。まあ参考程度にしかなるものじゃないが、「へー、ママはそーなんだ。ピンと来ないけど」くらいに記憶の隅に残れば上々だ。