恋という言葉の意味を知ったのは、その瞳を通して揺れ動く白のリボンを羨ましいと思ってしまったから。
その白色は確かにいつも私の隣にあった。
普段はボーイッシュでその髪を快適のために纏めていただけの後頭部は、いつのまにか白に侵されていた。
彼と私とあの子、彼はこの3人のグループが楽しいと言った。
彼女もずっと3人でいたいと言った。
苦だったのは私だけ。
貴方が好きだと言ったから綺麗に伸ばした黒髪、馬鹿みたい。
貴方が好きなのは黒髪じゃなくて黒に映える白だったのに。
1人俯く私の黒髪とは反対に、大好きな声に導かれ踊る白色を捉えた。
最後の演奏だった。おそらく人生で。
音楽が好きというだけで入ったこの部活も気付けば3年、環境が変わりまた3年。
6年間も走り切ってしまった。
“音楽が好き”の本質は、音楽を自分の表現に落とし込みたいという願望だということに気付けた。
それに気付いた時、自分の技術が表現を圧倒的に下回っていることにも気付いてしまった。
技術だけじゃない。周りにいる演奏者達は皆自分の音楽を持っている。
私にはなかった。あったのかもしれないけど、もう私には何も聴こえてこない。
スランプというには余りにも浅い経験値、楽しめなくなった音。
もう私の中に音楽のかけらは一片足りとも残っていなかった。
他の楽器の音に溶け込んで無くなる私の音。
掻き消されて聞こえないまま、金色を纏った部隊達が終わりの一音を掲げる。
ありがとう音楽、私のいなくなった舞台で音楽よ永遠なれ。
例えばショッピングモールに置いてあるお洋服とか、新作のコスメとか。
そういう物が煌いて見えた時、恋の音が聞こえる。
世界が輝いて見えるとはよく言ったもので、全ての景色に君を投影してしまう。
貴方となら何をしても好きだと思えるなんて、陳腐な言葉でも煌いた視界がそれを証明している。
恋する瞳は美しい。
母の作る卵焼きが好きだった。
中学生と高校生の6年間、母は5人家族全員にお弁当を持たせてくれた。
私が卵焼きを好きなことも知っていたから、母は欠かさず2つ卵焼きを入れてくれた。
朝早くに起きてお弁当と朝ご飯を作る母に、もちろん感謝していた。
大学生での初めての一人暮らし。
節約のためお弁当を作ろうと思い立ち、母のしていた様におかずと冷凍食品で埋めていく。
卵焼きの味付けは母に聞いていたのでその通りに。
上手く巻けなかった。結局その日はスクランブルエッグにして詰めた。
別に味は変わらないし、見た目が悪いわけでもない。
ただ練習して卵を巻けるようになった今でも、スクランブルエッグのほうが楽だと思う。
綺麗な卵焼き、母のささやかな愛情。
心に効く栄養は多い方が良い。
学校と家だけの小さな世界から放り出された時、しみじみとそう感じた。
友達との団欒が私の心を軽くしてくれたし、無償の愛は私に自信をくれていた。
自身で荒んだ心を治療する術を私は持っていなかった。
だから有名人や漫画のヒロインなんかの影に自分を落とし込み、結構他人経由で自分を愛していた。
別に自分が嫌いなわけではない、ただ自動治癒の環境に浸かりすぎて自分に関心がなかっただけ。
そこまでの思考に辿り着いた時、初めて自分に興味が湧いた。
自分の好きな自分を探すこと。自分の心に愛する隙間をつくる事。
心に沢山の栄養を与えたら身体を暖める位の大きな炎になるだろうか。
まだ着火したての赤色は弱い。