彼は職場の後輩だった。
お互いただそれだけのはずで、私には相手がいた。
過去形で語ると次第に実感が湧いてきて、多分彼のことが相当好きだったんだななんて他人行儀な感想が胸を縛る。
まだ付き合っていた頃、後輩は私の恋愛事情を聞いて親身に相談に乗ってくれた。
だから彼と仲良くなるのは必然だったし、お互いが尊重し合える関係だったと思う。
そんな面倒見のいい後輩との仲が原因で、皮肉にも幸せを落としてしまったのは1ヶ月前。
事の詳細を話す私に向けて後輩は眉を下げて笑った。
不覚にもその顔に自分が期待している事がわかって、自分が少し怖くなった。
私の愛しの元恋人はこの未来が見えていたのだろうか。差し出された手を取ってしまった私は、きっともう。
彼と夜を過ごす。
夜は隠れることができるから好きだ。
今日一日を彩った予定達も底を尽き、それでもお互いの言葉はなくまだ川沿いを歩いている。
同じクラスの彼と太陽以外を共有できるのは私の特権だ。
まだ私達は背景になれない時間。オレンジ色と紫が混じり合ってそれはそれでロマンチックだ。
同じ時間を過ごして、手を繋いで、思い出すだけでふわふわした気持ちになる。
でもまだ明るさに負けている気がして、欲張りたくなる。
あと一度だけ、動悸が欲しい。彼の恋を私に伝えて欲しい。
お互いがきっと同じ気持ちでこの道を歩いている。
それでもまだ恋愛初心者の私達には勇気が足りない事にも気付いている。
現に理由も会話もなく増える距離がそれを証明している。
これ以上を願うにはこの季節は日が長く、この期待と心拍数を落ち着けるには日は短かった。
それでも彼が私に触れる勇気と、恋の楽しみを知るには最良の季節だ。
『秋恋』
夜が怖い。
20を過ぎた大学生が未だにこんな事を思うのは恥ずかしいだろうか。
昔から怖がりで心配性だった。
自分より大きい物も些細な物音も、小さな虫を殺すのだっていつか復讐されるものだと思い込んで怯えていた。
怖かった原因を理屈で知る事が出来るようになっても尚、私の心臓は小さくなっていく心地がした。
遊園地の大きなサメも決められた動きを繰り返す恐竜も、いつか意思を持って私を襲う様な絵が鮮明になっていく。
夜は怖い。
視界を奪われること、自分の意識が保てなくなっていくこと。
意識を手放した先の秒針で知らない事が起こっていること。
何が起きてもおかしく無いのだ。
お化けも、虫も、事件も私を脅かす全ての事象は必ず夜。
眠る前の自分と次起きる時の自分は、全くの別人になっている可能性だってある。
落ちる瞼に逆らいたい。眠った後の私は、起きる私を明るい世界へ連れていって欲しい。
まだ外は暗い。起き抜けの私が絶望している。
『夜更け前』
人間が生を全うする姿は美しいと思う。
産まれた瞬間の何も持っていない自分から世界に触れ、オリジナルを確立していく。
そんな風に思えたらよかった。
生きていく。昨日よりも明日が近くなっていく。
今後2度と陽の目を見ない今年8月のカレンダーを見るたびに思う。
私が生きていく毎日は完全に1人にはなり得ない。
会話、SNS、芸術、誰かの何かを吸収して生きている。
また他人の色に上書きされてしまう。
産声をあげた時の無色透明の自分は紛れもなく私だった。
他人の色で日々塗り絵をしている私は今どんな装丁だろうか。
今人生は20年と少し。私の無色透明はどんな混沌としたパレットになるのか。それが今はまだ怖い。
胸が高鳴る。そんな恋に憧れていた。
だから好きと言われた時、これからを打診された時に心臓が止まった。
何度も響く君の声で鼓動なんてものは全く聞こえなかった。
心が主張してくれていたらどれだけ良かったのだろうか。
私の心臓は貴方のキスで吸い取られて消えてしまったみたいだ。
世に言う初恋と言うものは思っていたよりも静かで、でも想像してたよりも居心地が良かった。
身も心も全部くれてやると思った。