カレンダー
私は祖母が好きだ。
母方の祖父母が住んでいる隣町に、私は大人になった今でも頻繁に遊びに行っている。
車で数十分の田舎町。
バイパスから脇道へ外れ、トンネルをくぐると、田んぼや畑、山々が連なる緑豊かな景色が広がる。
トンネルの前と先で一変するさまが、まるで別世界に来てしまったかのような風景の変わりように、私はいつも不思議な感覚になる。
その田んぼ道を進んだ先に、祖父母の家はあった。
満開の桜の花が散っていく頃、叔父が離婚した。
聞いた話だと、叔父は随分と結婚生活に悩んでいたらしい。
相手の束縛や金銭問題、義理の両親との関係、重なる問題に叔父自身の身体もやつれていっていた。
そんな時に、昔、お世話になった人からの引き抜きの話。
叔父はこれを機会に、すっぱりと相手と別れ、昔に抱いていた夢の続きを追うことにした。
実家である祖父母の家に叔父が戻ってきたので、それから行くのを控えるようになった。
遊びに行かなくなっても、私の日々はつつがなく過ぎていく。
『梨をもらったから、取りにおいでって』
祖母から電話を受けた母は寝ぼけ眼の私に言った。
急いで支度を済ませて、祖母の家を訪れると、変わらず元気そうな祖母が出迎えてくれた。
『久しぶりだねぇ。なんだね、見ない間に痩せたの?』
『むしろ太ったよ、お腹周り』
そう言ってポンポンとお腹を叩いてみせる。
『そう?痩せたように見えるけどねぇ』
もっと食べねと笑う祖母。
私はまだ痩せてる部類になのかな、と自分のお腹をさすってみた。
『そうだ!来月、叔父ちゃん東京行くことになったから、またお泊まりに来ていいからねぇ』
『もう行くの?』
『そうだよ、もう半年になるからねぇ』
ハッとして、私はカレンダーを見た。
隣で指折り数える祖母の声を聞きながら、もうそんなにも経ったのかと、時のはやさを感じる。
叔父が出戻ってきたのが、つい最近の出来事だと思っていたのに。
叔父は、今どう思っているんだろうか。
離婚の傷は少しでも癒えたのか、新しく始まる生活に心配はないのか。
もう、しばらく会っていない叔父の顔を思い浮かべる。
久しぶりの私の訪問を祖父母は喜んでくれた。
最近あったことを話しながら、甘いケーキと熱いお茶を存分に堪能して過ごした。
帰り際、私は梨を包んでいる祖母を待っている間、叔父が今使っている部屋に行った。
家財などはなく、机と椅子と、ハンガーラックに服が少々あるだけの旅人の下宿部屋みたいで儚い。
全て置いてきて、本当に身一つで戻ってきたんだ。
殺風景の部屋に一際目につく付箋まみれのボードがあった。
『今の自分が未来の自分を作る』
『変わりたいと思う人が変わらないわけがない』
『自分に嘘をつかない』
『自分を信じて待つ』
たくさん貼れてた付箋には、こんな言葉が書き殴った文字でいくつも記されていた。
私には分からない。
叔父が今までどんな思いで生活していたか、どんなに苦しい状態だったのか、離婚したことでそれから解放されたのか、分かるはずもない。
離婚という辛い経験をしても、懸命に前に進もうと足掻いている。
ボードの言葉たちに叔父の葛藤を垣間見みたようで、私は胸がいっぱいになった。
ふと、壁のカレンダーが目に入る。
来月まであと半月だった。
叔父の新しい第二の人生のスタートだ。
今度こそ、叶えて欲しいと思う。
どんなことがあっても、多分、叔父なら大丈夫だ。
『描く未来と夢が叶いますように』
ボードの一番目立つところに、そう書いてあったから。
カレンダーをめくったこれから先のいつの日も笑っていられますように。
貴方の人生に幸あれ。
踊るように
桜の、散る様が好き。
風にさらわれ、踊るように舞い散る花びら。
咲く花は美しいが
散る様も、また美しい。
時を告げる
幼少期をともに過ごしていた友達と久しぶりに再会したのは、
私が20歳の誕生日を迎えたその日だった。
彼女とは同じ学校へ通い、毎日の登下校や、放課後の時間を一番長く一緒に過ごしていた。
たが、仲良しだったのかは分からない。
家がご近所だったから、なんとなく一緒にいただけかもしれない。
その証拠に、私は彼女のことをあまり知らなかった。
話すのはいつも彼女の方だけど、何の話をしていたか、忘れてしまうくらいにはどうでもいいことだったのか、昔のことすぎて忘れてしまっているだけか。
彼女が何を好きで、どんなことに楽しみを感じ、嫌っているか、
思い返してみても、分からないのだ。
ある時、何かのタイミングで友達を紹介するスピーチをした。
友達と聞いて頭に浮かんだのは、彼女だったけれど、私は言葉をつまらせた。
私自身が口下手なこともあったけれど、それを差し引いても
彼女について説明できることは容姿といつも自転車を乗り回していたことくらい。
でも、多分彼女も私のことを多くは話せまい。
彼女について多くを知ろうとしなかったし、私も自分のことを話したがらなかったから。
それでもいつも一緒にいてくれてたのはありがたかったなと、
彼女を思い出すたびに感謝の思いを抱く。
中学、高校と、学年が上がるたびに私たちは少しずつ疎遠になった。
思春期で周りのいろんなことに敏感になって(もともと私は周りの目や空気に敏感だった)学校へ通えなくなった。
時間のほとんどを家で過ごして、卒業するまでは数えるほどしか学校へ行かなかったし、こんな惨めな自分を見せたくなくて彼女との関係もぎこちなくなってしまったと当時の私は思っていたから。
偶然にも、私は彼女と進学先は一緒だったけれど、
周りの環境に慣れなくて、一ヶ月も経たぬ間に私はそこを去った。
私が学校を辞めることになったとき、
彼女から呼び出されたことがあった。
「学校、どうしても辞めるの?」
私は自分のことを話したがらなかったし、彼女も私のことは別になんとも思っていないだろうと思っていたから、彼女が私のことを気にかけてくれていたということに驚いたのを覚えている。
もしも、そこで彼女が辞めないでと言ってくれたら、
私はどうなっていたのかなと考えることもあったけど、
きっと変わっていなかっただろう。
ただ、何が言いたげな、苦しさとも寂しさとも言えぬ、顔を歪めた彼女の表情が忘れられない。
あの日を最後に、彼女は私の生活からいなくなったのに
またこうして再開するとは何事か。
「久しぶりだね、元気にしてた?」
そう笑う彼女は、いつだかの思い出の中の面影を残していた。
会えた嬉しさもあったけれど、私は言いようのない悲しさを感じた。
綺麗に結われた髪、可愛く着こなす洋服、大人びた顔立ちに映えるメイク。
あの日少女だった彼女が、大人の女性へと変化して、今、私の前に現れたことが、ひどく心を締め付ける。
ああ、いつの間にか、こんなにも経っていたのか。
彼女の存在が、私に静かに時を告げる。
貝殻
夜の浜辺。
月明かりに照らされた海面はいつくもの宝石が散りばめられているかのように輝いている。
波の穏やかな音をききながら、わたしはそれを眺めていた。
どこまでも広がる海。その青さ。
少し視線をあげれば、真っ暗に染まる空に昇る月。
何気ない、風景のそれにわたしは涙が溢れた。
ただ、そこに“ある”ものたち。
何も考えることも、感じることもせず
海はあり、空があり、月は照らされている。
わたしも自然に帰りたい。
人の心は美しい。たくさんのことを感じ、豊かに満たされたときの身体中に広がる、あのなんとも言えない暖かさ。
優しさに触れるたびに、もう少し、もう少しだけ。
そう自分に言い聞かせてきたことを、
この景色に溶かされてゆく。
もう、いい。
思考をやめた途端に、これまでの人生が脳裏に思い浮かぶ。
人生100年というのなら、わたしはまだその半分も、4分の1も生きていない。
それでも、わたしはもう、よかった。
この苦しみを抱えたまま、過ごす日々を考えたくなかった。
本を読んでも、
いろんな人の話を聞いても、
わたしの苦しみを解してくれる答えは見つからなかった。
何をしていても、“死”の一文字が頭の片隅に残っては
すべてが意味ないことのように思えてくるから。
不意に、足に冷たさを感じる。
波がいつの間にか、わたしの足元まで押し寄せていた。
それを合図に、わたしは立ち上がった。
震える足を一歩、一歩と海へと向かう。
目の前の海は深く、入ってしまったら、きっともう戻れまい。
それでもいい。
死ぬのは怖い。
でも、生きるのも怖いんだ。
だから。
「さようなら」
その言葉を最後に、彼女は自然に帰っていった。