1から。いいや0から、この恋を始めたい。
そう思った。
身分知らずの恋は、いつだって人の心をドキドキワクワクさせてくれる。
私にとってこの人も、心をドキドキワクワクさせてくれる存在で、鈴蘭みたいに気高くて近寄りがたい。そんな人。でも、人の思いは自由なのだから、
そう思いながら一歩を踏み出し、ドアを思っきりあけた。
開けた先には彼がいて、あまり見せてくれない笑顔を見せた。
ずるい
同情は誘わないで
痛いだけだから
初等部の頃から憧れてる人がいる。同じ、漢字は違うけど、長谷って苗字の『長谷伊織(はせいおり)』くんっていう、椿寮の男の子。
成績は常に上位で、運動ができて、話すのが上手で、観察力があって、人一倍努力してて、目が綺麗。諦めが悪くて、同じ寮の人からよく厄介事を押し付けられてて、それを文句も言わず引き受けて、笑ってる。
鈴蘭寮の人達にバカにされても、彼は泣かなかった。鈴蘭寮の権力があれば、明日自分の席が無くなってることだってあるはずなのに、彼は動じなかった。それどころか、彼は言い返せないぐらいに反論した。私だったらきっとすぐ泣いていた。でも長谷伊織は泣かなかった。真っ直ぐと立っていた。その姿が、すごくかっこいいと、幼いながらに思った。だけど、彼とは反対に、私は泣いてばかりの泣き虫で、頭も悪くて、口下手だし、ドジだし。おまけに集中力もなくて、だめな子だった。
図書室に行くたび、机に向かう彼を、私はぼーっと眺めていたまま時がたった。2年や3年よりももっと長い時間。中等部になった頃、初等部から見続けた彼の背中は、大きく、そして遠くなっていった。
「あのさ、」突然話しかけられた私は、肩をビクンと鳴らした。
「わ、私…ですか?」
「君以外にいないと思うけど」周囲を見渡すと、誰もいなかった。おまけに窓の外は空が暗くなっていた。月明かりは見当たらなかった。
「名前は?桜寮でしょ?僕は桜寮に知り合いはいないですよ」
「羽瀬里桜(はせりお)です!」
「僕に何か用があるのか?」
「あの、伊織くんは、なんでそんなに頑張れるのですか?」伊織くんは不快そうな顔をした。また私はやってしまった。無神経にズカズカと人の心に土足で入って、自分がされたらやなことをまたやってしまった。
「あの、その︙嫌味じゃなくて!︙わ、私、」
「いつもここに来てるよね。里桜さん、たっけ?」
「は、はい。ちょっとでも何かできるようになりたくて」
「…なにか出来ないの?毎日成長しようと努力してるじゃん。なにかできてるんじゃないの?」
「そうですかね…伊織くんはなんで、頑張ってるんですか?」
「知ってどうするの?」
「え、それは…」
「僕は、寮長になりたいんだ。母さんと父さんがそうだったから」
私は決意した。
少しでも、伊織くんに近づいて、伊織くんの隣りにいたいと。
今日、昨日までの私とさよならをする。泣き虫な私は今日捨てる。
伊織くんはきっと、泣き虫な私を忘れてはくれないけれど。
そもそも、私が涙を流すことを責めたりなんてしないことを知っているけれど。
今日と別れて、明日からの私に出会って、泣かないとは言わないけど、せめて、涙なんかじゃなくて、笑顔の似合う私になりたい。そしたら伊織くんはきっと、私に気づいてくれる。
羽瀬里桜は長谷伊織が好き。
普段笑わない彼の笑う顔も好きだけれど、普段の彼の顔も好き。大きな夢を語る彼が好き。大好き。
綺麗な目が見つめるものを私は知らないけれど、綺麗な目に映るものが何かを知らないけれど、私はその目が好き。彼のよく通る声が好き。でも、弱々しい声も好き。弱音を吐くときの声だって好き。
努力している彼も好き。だけど、だらけた彼も好き。大好き。
誰でもいいは流石に嘘だけど、誰か、私を愛してほしい。
一人は寒くて暗くて、生きた心地がしない。
ときより感じる人肌の恋しさは、愛の暖かさに触れてもきっと、なくなったりしない。
数年の苦しみが一瞬で消えたりだってしない。
王子様のキスでだって、私は救われない。
私が喋っても怒らない、私が笑ったら一緒に笑ってくれる、そんな人に愛されてみたい。そう思うのは駄目なのだろうか。
そう思いながら、私は目を閉じた。
もう目覚めないことを願って。
「綺麗じゃないですか?ここの景色。ここで見る星は何処よりもきれいなんですよ」
三つ葉寮の寮長である参輪(みわ)ふたばが、自分の寮の自室にあるベランダに俺を通した。『星が綺麗なんだ』と孤立した俺の手を参輪が引いた。参輪の自室は、お世辞にも綺麗とも広いとも言えなかった。必要なものがあったりなかったりと、言いたいことがたくさんある部屋だった。そんな部屋を通りベランダを踏む。ギッと地面がきしむ音がする。
「ほら、綺麗でしょう?どこの夜景よりも」そう言って参輪は俺に笑いかけた。
「星なんて興味はない」そう言うと、参輪は一瞬悲しそうにしたあと「鈴蘭寮の寮長さんは、冷たいですね。」と笑った。申し訳ないとは思わなかった。
「ほら考えて見てください。幾千もの星に、物語があるのです。もしかしたら、他の星にも人がいて、その星の一人一人が物語を持っている。そう思うと、星自体が短編集のようなものに見えてきませんか?」独特な参輪の意見に、少し笑いそうになった。しかし、星は星だ。本には見えない。俺は素直に「見えてこない」と答えた。参輪はまたしばらく考えだした。しばらく見ていると、思い出したように語り始めた。
「うーん。他の星から見たらこの星だって小さくて、ただ見るだけ。もしかしたら見るにも値しない。そんなものだと考えると、実に面白くないですか?」
俺が返答に困っている隙に、参輪は空を指さした。
「あ、あの星は鈴蘭寮の寮長さんみたいですよ。白くて冷たそうです」俺は参輪が指した方を見て、どこのことを指しているかを探す。しかし見つからない。
「どこだよ︙これか?」適当なものを指さして聞いてみた。
「うーんその星は椿寮の寮長さんですかね。椿寮の寮長さんの背中は大きくて暖かくて優しい感じがするので。ちなみに、その隣のかわいい星は桜寮の寮長さんですかね?」と聞いてもない持論を繰り広げた。俺にはさっぱりわからない。さっき指した星すらも。しかし、この星はしっかりと浮かんだ。
「じゃああの建物の横にある星は参輪だな。」その星は、参輪の様に、弱々しく、すぐに散ってしまいそうな花のようだった。しかし、その弱そうな儚さが、美しかった。
「え、どれですか?」参輪が空を眺め、それっぽいものを探す。
「上から8個目のレンガの横。右側のすぐ。すぐ消えそうな星」俺はその星の明確な場所と見た目を示した。星を探す参輪の横顔に、なぜか吸い込まれた。
「どこですか。︙ていうか、酷くないですか?」急にこっちを向いた参輪と目が合う。一瞬ドキッとした。が、調子を整える。
「酷くねぇだろ。思ったことだし」
「鈴蘭寮の寮長さん、意外とのりいいですね」いたずらにニヤリと笑い、手すりを掴む手に顔を近づけた。
「別によかねぇだろ」
「どうですか?こう語らうのも悪くないんじゃないですか?」
「悪くはないけど、もうしたくはない」そう言って俺は空を見上げた。そこにはいくつもの星が生き生きと輝いていた。
「残念です。でも、星同士を渡るのに、数年かかるそうですよ。あそこにあるキレイな星に届くまで、一体何年かかるのでしょうね。私と鈴蘭寮の寮長さんの星だって、今の私達の距離よりも少ない距離なのに、私の拳一握り分ぐらいなのに、何年もかかる。不思議ですよね」そう言い参輪も星空に釘付けとなった。
いくつもの星を越え、千年経った先でも、こいつとまた出会えたのなら。
そう望まない日はない。