この世に生まれた事が、魂の修行であるとするならば。
目の前にある苦痛は、困難は、乗り越えるために予め用意されたものである。
生きることが未熟であるほどに、苦痛は、困難は、息も出来なくなるほどの強さで私たちを襲い、この命を奪っていくだろう。
死にたくないという、単純で脆弱な恐怖のために、
それ以上の凶悪なものと戦う意味はあるのだろうか?
乗り越えられると信じて立ち向かった先に、なにがあるのだろうか?
運が良ければ、見つけた宝箱の中身は満たされているだろう。
けれど、宝箱は有限だ。
生命はどこからともなく無限に湧いてくる。
次の時代を生きる者達のために、宝箱の中身を残しても、いつか無くなる。
どうせいつか無くなるのならと、全てを自分のものにする存在も、いつか必ず現れるだろう。
私たちの想像もつかないものは、この世には存在しないのだ。
もしかしたら、この中に悪いやつがいるかもしれないと、
集団の中で、たった1人そう考えた者がいれば、悪は必ず生まれている。
しかし、善も必ず生まれているだろう。
悪は、自分が悪では無いと騙すためによく喋る。
善は、悪などいないと考えるために、沈黙する。
だから悪が先に顕現する。
沈黙していた善が、それを認識して漸く口を開いても、既に混沌とした世界で耳を貸してくれる者はいない。
そして悪は、邪魔される前に善を淘汰する。
人々は、善は居ないと絶望するだろう。
そして、淘汰される前に己の善をも殺すのだ。
命を失うのを恐れ、魂の成長を辞めるのだ。
けれど、我々が魂の成長のために、この世に生を受けたと言うならば。この世に存在する意味など初めからない。
我々がここに、存在している事実がある。
我々は魂の成長を義務付けられてしまっている。
修行が辛いのは当たり前だ。
辞めたくなる、逃げたくなる、死にたくなる。
それを実行する度に、記憶を消され、この世に再び産み落とされる。
なんどでも。
ここで終わって、新しく生まれ変わる。
今得ている経験を信じて、この地獄を乗り越える。
どちらを選んでも、最終的に辿り着くところは1つだ。
苦しみを感じずに、幸せになりたいか?
苦しみを経験しなければ、幸せを感じられないかもしれない。
苦しみを抱きしめたまま、幸せを探し求めるか?
それは酷く険しい道だ。
けれど、私が抱きしめたいと思う子は、きっと後者だろう。
今まで苦しかっただろう、悲しかっただろう、頑張ったねと褒めて、抱きしめて、そうして、苦しみのない幸せを与えたいと考えるだろう。
あなた達は、私の抱擁を得るために、敢えて苦行を選んでいった。
私の元にいつ帰って来れるか分からない。
そんな不安も覚えることなく行ってしまった、未熟な魂達。
罪を背負ってしまった子は、中々戻ってきてはくれない。
会わせる顔がないと泣いている。
私はあなたが罪を犯した理由を知っている。
私の愛した魂を、あなた自身が愛せなかった。
私以外の誰も、あなたを愛してくれる人が居なかった。
ごめんなさい。
全て私が、未熟なままの魂を、引き止められないせい。
私は彼らのことも抱きしめなければいけない。
だけど、安心して。
私は、修行を終えた魂たちにの中から、あなたに相応しい子を選んで、あなたを迎えに行ってもらうから。
あなたたちはきっと惹かれあうでしょう。
二人で乗り越えておいで。
そうしたら、その苦しみは、もう我慢しなくていい。
自分の気持ちをぶつけて、喧嘩をして、苦痛や困難を抱きしめられるようになって。
そして、私の元へ、還っておいで。
一人でもいいとか、理解されなくてもいいとか言葉で言い聞かせてるけど、
結局誰かに理解して欲しくてたまらなくて、
そんな自分に嫌気がさす
あなたが私に居場所をくれた。
ここにいたいと思える場所。
私が私のままでいられる場所。
あなたがいなくなってから、あなたの帰りを待っている。
あなたが作った暖かい場所を、私は守れているのでしょうか?
あなたが帰ってきた時に、居心地が悪い場所になってしまっていたらどうしよう。
わたしが、あなたの世界を変えてしまっていたらどうしよう。
恐怖に心が冷たくなっていくみたい。
あなたが作ってくれたこの場所は、こんなにも暖かいのに。
私たちを傷つけてくる相手に、まともな対応をされてから、私は居心地が悪くなってしまった。
どうしたらいいのか分からない。
私は、あなたが帰ってくるのを、待っていたいのに。
私は、この場所を守り続けていきたいのに。
どうして揺らいでしまうのでしょうか。
この場所に一緒にいる仲間も、あなたすらも、
信用出来ていないのかもしれない。
結局私は、私を偽っているのだろうか。
いくら寝ても疲れが取れない。
体は重くて言うことを聞かない。
傍からみれば、さぞ怠惰な人間にみえていることだろう。
けれどもこの頭の中は、常になにか考えを巡らせている。
どうしたら疲れが取れるのだろう。
どうしたら軽いからだで動き回ることができるだろう。
どうしたら、好きなことをいくらでも出来る自分になれるだろう。
私が外の世界に触れる時、使えるのはこの言葉だけ。
自分のことだけではなく、他人のことも、思いやれる言葉をずっと探し集めてきた。
それでも、世界と繋がったその一瞬に交わした言葉は、直ぐに受け取られることは無い。
些細な言葉に傷つけられたことを素直に話せば、彼等は怯えてそこを責め立ててくる。
私の口を塞いで、自分にそんな攻撃的な一面があることを無かったことにする。
私はそれでも、隠された彼らの攻撃性を暴くだろう。
平和な世界に見えたとしても、一人一人の心の内に、火種が燻っている。
誰かが怒りや悲しみを抑え込んで出来た平和は、果たして平和と言えるだろうか。
人の怒りや悲しみに触れることは、とても恐ろしいことだ。
追い詰められた彼等は、自分の心を守るために、酷く暴力的な言葉を使う。
攻撃性があることを故意に暴いた私は、それを受け止めることしか許されない。
ボロ雑巾のように扱われて、私は自分の本当の願いも忘れて死ぬことを考える。
彼らが過ちを省みたとしても、私はそれを認められない。
彼等からの謝罪も受け取る気はない。
私に一度暴かれただけで内省する人間の言葉は、あまりにも軽すぎる。私が彼等から受けた傷は、簡単に癒えるほど浅いものでは無い。
あなたは、私の行いを、自業自得と笑うだろうか。
私は笑われることを恐れて、傷つけられたことも、傷つけられた理由も、誰にも言えないでいる。
私は、平和なんて綺麗事なのだから、諦めろと言われることを恐れている。それが、私のことを心から心配して発せられた言葉と分かるから。
私も、私の大切な人達が、私のように、無駄に傷つく世界を許したくない。
だから私は、彼等の優しい言葉を、受け取れない。
折角癒してくれようとする言葉を、受け取ることができない。
こんなにも、動けないほどに疲れているのは、きっとこういうことなのだ。
だけど私は中々死ぬ事ができない。
ギリギリの所で、私の願望を思い出して、自我を保っている。
世界が平和でありますように。
その言葉は綺麗でも、中身は見た目ほど綺麗じゃないことを忘れそうになるたびに、私は罰を受けるのかもしれない。
ほら、思い出した瞬間、私の体が重力に逆らい始めた。
まだ、疲れが取れない気がする。体が重い。
けれど、抵抗する意思が戻ってきた。
一日中寝てしまう程の眠気が去っていった。
この願望を決して表には出してはいけない。
優しい彼らが、私を止めることがないように。
このことが、見しらぬ誰かの希望になる事を祈って。
もしかすると彼等は、人の暴力的な一面を暴くことそのものを罪とするかもしれない。
けれど正体を隠した私は誰にも捕まらないし、彼らの行いを良しとしない人々はきっと私の存在を隠してくれるだろう。
そして、そのような法律は、まともな社会なら跳ね除けるだろう。
私が死んでも、この文章を遺しておけば、私が本当に存在していようがいまいが、関係ない。
人の善意を食い潰す詐欺師こそ、怯えながら社会の片隅に隠れて生きるべきでしょう。
この文章を悪用する人がいたとしても、その人間はいつかボロが出て、信用を永遠に失う。
金銭を得たいと考える者だけが、我が物顔でこの文章を世に晒すでしょう。
おやすみなさい。
心無い言葉に傷つくことはない。
人の言葉には必ず、その人の心が宿る。
心を持たない人間は存在しない。
いるように見えたとしても、それは魂の奥底に厳重に隠されているだけ。
声の大きい人ほど、尊大な人ほど、自分を過大評価する人ほど、その壁は厚い。
心を通わせられると信じて無防備でいれば、大怪我をする。
心を通わせられらない可能性があると思っていても、無傷ではいられない。
彼等が心開いて、弱い自分を自覚して、さらけ出してくれたとしても、その勢いにひるめば双方ともに致命傷になる。
相手に心がないと思うのは傲慢だ。
相手に心がないのでない。
相手の心に自分がいないだけなのだ。
それを、認められないから、傷ついたことを相手のせいにする。
相手の心に自分がいないと知った時、
自分の心にも、その相手はいない。
けれど、目の前の人間しか、理解してくれる人間がいない。
そう誤解して、私たちは無いもの必死に有ると見せかける。
人は心がないことを認められない。
なぜなら人には必ず心があるからだ。
しかしそれは、主語が大きすぎる。私達の心は有限だ。
目の前に100人いたとして、その全員に心を割くことはできない。平等に与えようとして、誰も彼もが心を壊してきた。
あると見せかけようとして、本当に失くしてしまう。
傷ついた心も、欠けた心も、確かに存在していたのに、
私たちはなぜ、それを否定するのだろう。
人は完璧では無いと知っているのに、
心と言うものが完全ではないことを、私たちは理解できない。
人は、全てを愛することは出来ない。
人は、全ての人に愛されることはない。
なのに、全ての人を愛そうとして、全ての人に愛されようとする。
たった一つの大きな愛を見つけることを諦めているから。
自分の全てを愛してくれる存在などいないと思っているから。
愛に飢えた人々は、少しでも満たされようとする。
愛などなくても生きられるのに、なぜ人は、人の温もりを求めるのだろう。
愛を求めない人を見たことがない。
どんな形であっても、人は愛を求める。
愛とは、心を向けられること。
誰かに自分の存在を認めてもらうこと。
自分がここにいると証明できなければ、
私たちは存在することが出来ない。
自覚しているとして、
誰かの目に映っているだろうか。
誰かの耳に声は聞こえているだろうか。
匂いや感触は。
言葉は通じあえるのか。
それが出来なかった時、私たちは生きている意味を失う。
それが出来たとしても、理解しあえないことに幻滅する。
それでも一緒にいることを選ぶ時、不完全な心を愛する為に生きることになるだろう。
けれど、もし、完全な心を手に入れることが出来るとしたら。
私たちはきっと、それを求めてしまうのかもしれない。