「彼女と旅行行くから一週間だけペット預かってくれないか」と友人に頼まれた。動物は好きなので快諾したら、旅行前日に家までやってきたそいつに渡されたのは空っぽのケージだった。
「何もいねえけど」
「居るよ、ほら」
ケージに手を突っ込んだ友人が、何かを抱き抱えるみたいなポーズで両腕を差し出す。ふざけてんのかな、って思ったけど、友人の表情はいたってふつうだ。俺は恐る恐る手を差し出した。
「うわ」
友人の腕から10センチほど上のところで、信じられないことに指先に柔らかい感触がする。こわごわ抱きかかえると、暖かい体温ともぞもぞと動くのが伝わってきた。
「何だこれ……」
「名前はタロウっていうんだ」
「名前じゃなくて」
友人は聞く耳を持たない。俺にはわかる。今、こいつは確実に彼女とのデートに意識が持っていかれている。友人は「エサはこれ1日2回、朝と晩に頼むわ。余裕あったら散歩してやってくれ」と世話用のものだけ寄越して、じゃーな!と突風のようなスピードで去っていった。
えたいの知れない生物とふたりきりになったアパートはえらく静かだ。ひとりと一匹か。いや、『匹』なのかな。ケージは猫か小型犬くらいは入るかなというサイズなので、恐らくそんなに大きくはないだろう。体重も片手でも持てそうなくらいの重さしかない。腕の中にいるはずの生き物を見下ろす。人馴れしているのか、そいつは随分おとなしく、身動きひとつせずそこにいる。
「タロウっていったっけ」
ぴく、と動く気配がする。多分生き物は腕の中からこっちを見あげている。目が合っているかは分からないけど、俺はなるべく視線を合わせるようにつとめて挨拶した。
「一週間よろしくな」
ぴるぴる、とおもちゃの笛みたいな音がした。後になってそれがタロウの鳴き声ってことに気がついた。
タロウと暮らして4日が経った。さすがにちょっと慣れてきて、いろいろわかったことがある。まず、活動時間についてだ。タロウは朝がすごく早い。四時になると急造の毛布の巣を抜け出して、ぴるぴる鳴き出す。毎朝きっかり四時である。放っておくとずっと鳴き続けるので、かわいそうになって俺はしぶしぶベッドを出てエサの準備をする。
主食は友人に渡されたペレットなのだが、旅行中のやつから「野菜とかも食べる」とメッセージが送られてきたので、あわせて野菜の切れ端もあげている。浅い小皿に入れて水と一緒に地面に置くと、軽い足音が近づいてきて、餌がどんどん虚空に消えていく。あんまりじっと見ると食べづらいだろうとちらちら見るに留めているけど、これがすごく不思議で面白い。
完全に空になったのを見届けたら皿を片付ける。このとき、というかタロウとの生活全般で注意しないといけないのが歩く導線だ。メシや寝てる時以外、タロウがどこにいるか把握するすべはほとんどない。一歩間違えるとタロウを踏みかねないのである。前に一度だけしっぽと思われる部分を軽く踏んづけてしまったらしく、車のクラクションみたいな音で鳴かれた。以来、一歩一歩慎重に足を踏み出すように気を張っている。
それから、タロウは外が好きだ。頼まれた手前、散歩にも連れて行ってやりたいなとは思っていたが、リードなんかは渡されていないので手詰まった。渡されたとてタロウの首がどこなのか分からないので付けようがないのだけども。
「散歩ってどうやんの」と友人に訊くと、「抱いて外歩くだけでいい」と返ってきた。曰く、運動量じゃなくて日光を浴びるのが大事なんだそうだ。
早速抱っこして近所を歩いてみると、分かりやすくタロウの様子が変わった。ウクレレの弦を弾いた時のような声で鳴きながら、一定のペースで横に揺れるのだ。全然分からないけど、相当ご機嫌なんだろう。面白くなって予定より遠くの公園まで歩いて行ったら、ランニングしているおじいさんに話しかけられた。
「おっ、可愛いネコだねえ」
「え、見えるんですか」
「そりゃあねえ」
おじいさんはにこにこしてそのまま走り去ってしまった。それで分かったのだが、どうやらタロウは俺以外には見えるらしかった。ただし不思議なことに、タロウの姿についての証言はみんな一致しない。「かわいいワンちゃんね」と言われることもあれば、「うさぎなんて連れてどこ行くの」と聞かれることもある。タロウの外見がよっぽど紛らわしいのか、それとも人によってタロウの姿が違って見えるのかはわからない。
日課となった散歩から帰宅して、ぱくぱくとエサを食べる姿をぼんやり眺める。相変わらずエサは空中に消えていくばかりで、タロウの姿はさっぱり見えない。
姿を確認するすべは、どういう訳か俺には無いらしい。
「あっ、かわいいトイプードル!」
「え、ポメじゃなかった?」
「馬鹿!どう見てもパンダでしょ!動物園関係の人かなあ」
ひそひそ言い合う女子高生の横を会釈して通り過ぎる。6日目。あと一日でタロウとはお別れだ。ここまで来ると見えないのが悔しくなってくる。
帰宅してタロウを降ろすと、タロウがとたとたと室内に入っていく音がした。俺はその場でしゃがんだ。部屋の奥を目をすがめてじっと見る。
ーー景色は変わらない。
「駄目かあ……」
脱力して腰を下ろす。明日の夜には友人が迎えに来て、タロウとはしばらく会えなくなる。もうだいぶ愛着が湧いてしまっていて、最後まで自分だけがタロウを認識できないのは何だか寂しかった。俯いていると、床を跳ねる音が近づいてくる。腕にふわふわした細長いものが巻きついた。
「しっぽかな……」
へへ、と思わず笑った。賢いやつなので、多分心配してるくれているんだと思う。手探りで体を撫でると、こっちに擦り寄ってきた。
夜ご飯はフルーツの盛り合わせにした。さしあたってのタロウとの最後の晩餐なので、気合いを入れたのだ。特にバナナへの食いつきが凄まじく、用意していたひと房をものの数分で食べてしまった。そういえばゴリラに間違われたことはなかったな、なんて散歩のことを思い返したりした。
夕食が終わると、タロウが眠りそうな気配がした。ぴるぴるという鳴き声が低くなって、ぐるぐるという猫が喉を鳴らすみたいな音を立てている。いつもだったらこのまま自分で寝床に入るか俺の膝で丸くなって巣に運ばれるかなのだが、俺はちょっと考えて、タロウを抱き上げて自分のにベッドに連れていった。最後くらいいいかな、と思って。タロウも抵抗しなかったから、電気を消してひとりと一匹で布団を被った。タロウの体温が心地良かった。
翌日、友人に連れられてタロウは自分の家に帰った。帰ってきた友人を見たタロウは一目散にやつの方に駆けて行った。当然といえば当然なんだけども、まあまあ妬けてしまう。それでもお別れの時にはぴるぴる鳴いてくれたので、まあ、タロウにとっても悪くない7日間だったのかなって思う。
あれ以来、たまに友人がタロウの写真を送ってくれるようになった。写真に撮られてもやっぱりタロウの姿は見えないんだけども、何故かそこにいるのは分かるので結構楽しみだったりする。来週、家に遊びに行く予定も出来た。予定が決まってすぐバナナを買い込んでしまったのは秘密だ。
(透明)
「コンプレックス?あるよ?」
大きな尾ひれを扇であおぐようにぱたぱたさせて、友達の人魚はそう言った。
彼女とわたしは10年来の親友だ。わたしが海女をしていた頃に偶然海で出会って、それから何度も獲物を奪い合った仲である。そのうちすっかり意気投合し、漁に出るたびに彼女が会いに来てくれるようになった。わたしが転職してOLになった今でも、週末はこうやって岸辺に集まっておしゃべりをしている。
「あの漁師がかっこいい」だの「今年の社員旅行オホーツク海現地集合でめんどい」だのと取り留めのないいつもの会話の中で、わたしが海女を辞めてから下腹が気になるという話をした。「あなたはいくつになっても可愛くていいよねえ」と言うと、彼女が冒頭のように返したのだった。
わたしは彼女をまじまじと見る。華奢な腕に白い肌、濡れ羽色の髪は長く美しく、顔立ちも絵画みたいに整っている。彼女にもコンプレックスがあるなんて。
「エラ呼吸がね、苦手なの」
「エラ呼吸」
「出来ないことはないんだけどねえ」
ほら、と彼女は首の辺りを指で指す。よく見ると、たしかに薄桃色の切れ込みのようなものがそこにある。
「人魚ってエラ呼吸なんだ」
「そうだよ。じゃないといちいち海面まで上がってこなきゃいけなくて面倒でしょ?」
「確かに……」
言われてみればそうだけども。ちょっと思ってもみない方向からのレスポンスである。
「ていうかあんたはそれできないんだ……」
「あ、馬鹿にしたー。エラ呼吸出来なくたって5時間くらいは息が持つから困んないし」
「すごいね」
「エラ呼吸できる人魚って実際は八割くらいしか居ないんだよ」
「もしかしてラーメンすすれるすすれないぐらいの感覚?」
「あーあ。人間はいいよねえ、エラ呼吸無くても困んないもの」
「そこで人間が羨ましがられることあるんだ……」
隣の芝は青いってやつなのだろうか。うーん、ちょっと違う気がする。テトラポットにもたれて不貞腐れてしまった彼女をとりあえず元気づけたくて、「今度ガスボンべ買ってこようか?」なんてよく分からない慰め方をした。
(理想のあなた)
あっ、と気づいた時には、右耳のピアスは姿を消してしまっていた。やけに耳が軽いなと思ったのが30分前。耳たぶを手探りで触ってみたが、あるはずの金属の感触がそこに無い。あわてて姿見で確認すれば、左耳と同じデザインのピアスは影も形も見当たらなかった。今日はまだ家を出ていないから、間違いなく室内のどこかに居るはずなのだけれども、布団をひっくりかえしてもカーペットをひん剥いてもピアスは見つからない。ひとしきり部屋をぐちゃぐちゃにした所で、私は捜索を一旦諦めた。
商店街のテナントに最近入ったオーダーメイドの雑貨屋で、たった3週間前に買ったピアスだった。蝶を象った小ぶりの飾りが付いていて、ピアスが揺れる度にガラスで出来た羽が虹色にきらめいた。もうそんなの、一目惚れだ。私は値札も見ずに購入を決めた。結局ピアスは普段のショップの3倍の値段で、手痛い出費ではあったのだが……そうだ、手痛い出費だったのだ。
がっくりと肩を落とすと、ちり、と左耳のピアスが音を立てた。そういえばこっちは無事だったのか。壁にかけた姿見に、耳元でピアスが揺れているのが映る。相棒を失った蝶は、所在なさげに耳元で羽ばたいている。
寂しいのかな。何となくそんなふうに思った。ひょっとしたら右の蝶はもうこの部屋から飛び立ってしまって、左の蝶はそれを追いかけたがっているのかもしれない。本当は今すぐここから飛び出してしまいたいけれど、持ち主の私に遠慮して、ここに留まってくれているのかも。
やけにポエチックな妄想がどんどん膨らんで、段々それが真実のように思えてきた。一人置いていかれるなんてかわいそうだ。私はリビングの窓を少しだけ開けると、左耳の蝶を外してそっと窓のさんに乗せた。蝶は横たわったまま、夕暮れの光を大人しく反射させている。私はそれをちょっと眺めてから、予定の時間が迫っていることに気がついて家を出た。
家に帰ると、窓際の蝶は居なくなっていた。本当に飛び立ってしまったのかは分からない。窓からカラスなんかが持っていってしまった可能性もある。ぼんやり眺めいていると、ふと、さんの端が月光を受けて光った。七色の反射光が彼らの置き土産みたいで、寂しい気持ちと一緒に、少しいいことをしたような気分で心が満たされた。
(突然の別れ)
日曜の朝刊に挟まって今日の特売を宣伝するのが仕事の俺は、役目を終えればクーポンのところだけ切り取られて再生紙に回される運命だった。はずなんだが、ご子息の手によってあれよあれよという間に改造されて、いつの間にか彼のお気に入りの一機に姿を変えていた。彼は中々ベテランのエンジニアらしく、ジェット機を思わせる細身の機体はシンプルだが無駄なく正確に設計されている。翼にはカミナリの意匠が施されて、自分でいうのも何だが中々イケているではないか。
早速お披露目のためにご子息と一緒に公園へ向かう。空は快晴、少し強めの南風が心地いい。絶好のフライト日和だ。芝生の真ん中に立ったご子息が俺を構える。テイクオフ。
正確なタイミングとスピードで打ち出されて、俺は南風に乗ってすいすい進む。飛ぶのはのは思った以上に気持ちがいい。毎秒近づく青空の眩しさに下を向けば、こちらを見上げるご子息と茂る芝生の緑がこれまた鮮やかに目に映った。
「こんにちは」
声が聞こえた気がして頭上を見上げると、はるか上空に巨大な旅客機がひとつ。
「素敵なボディ!今日はどこまで?」
声の正体は彼女らしかった。俺は彼女のエンジン音に負けないように声を張り上げる。
「分からない。行ける所まで」
「そうなの。私は海を越えたもうちょっと先まで。また会えるといいね!」
会話はそれきりだった。ぐっと彼女の機体が上昇して軌道を変えたと思ったら、あっという間に見えなくなった。同時に俺の身体を支えていた風が止む。彼女のようにエンジンを持たない俺は緩やかに大地へと落ちていく。
「やった。すごい飛んだ」
芝生に降り立った俺をご子息が喜んで抱えあげる。俺も一緒に嬉しい気持ちになるけれども、頭の半分くらいでは今さっきの出会いのことを考えていた。また会えるといい。願わくばもっと長く、もっと彼女に近いところで話ができたら。あるかもしれないそのときのため、また離陸準備に入ったご子息とともに二度目のフライトの態勢を整えた。
(風に身をまかせ)
バイトからの帰り道に気になる路地を見つけた。証券会社のビルと銀行の間にあった道で、それらの建物のことはぼんやりと認識していたのに、すき間の道だけは今の今まで目に入っていなかったらしい。いつも通る道のはずなんだけども。子どもの頃からこういうのを見つけると気になって仕方なくなるたちなので、チャリに跨ったままそこに入ってみた。
路地はごく普通のせまい路地だった。黒ずんだビルの外壁が両側にそびえていて、上の方で換気扇が回る音がする。道の端にはぐちゃぐちゃのレジ袋やコーヒーの缶が転がっていて、俺はそれを避けながら慎重にペダルを漕いだ。
建物三個分くらい進んだかなってところで路地は急に終わった。終わったと言っても、ひらけた道に出たとか行き止まりに当たったとかってわけじゃない。路地の先には3メートルくらいの灰色のコンクリートの壁が立っていて、そこに自動ドアが一つだけついている。建物かな、と自動ドアの方に寄ると、なんの抵抗もなく扉が空いた。オートロックじゃないのか。ちょっとびっくりしつつ、自転車を停めて自動ドアをくぐって、さらに驚いた。建物かと思っていたコンクリートの壁の向こうには、入ってきたのと同じような路地が続いていた。
なんだこれ、自動ドアは一体なんの意味があるんだろう。
変な路地を見つけたってだけなんだが、不思議な空間に迷い込んだ気分で俺はもうわくわくしてしまって、先に進む以外に考えられなかった。自分のちょっとだけ冷静な部分が「まさか私有地とかじゃないよな」と囁いたので、周辺にそういった文言が無いのだけ確認して、俺は意気揚揚と足を踏み出した。チャリも置いていくことにした。そんなに長い間冒険する気はなかったから。
路地は常に同じ景色というわけではなく、入り口と似たようなビルに挟まれていたり、マンションっぽい窓の沢山ある建物の間を通っていたり、あるいはあきらかに一軒家どうしの狭間にあったりした。風景に変わったところはない。おかしな点はやけに長いのと、一定区間進んだところで最初に入ったのと同じような自動ドアをくぐらされるところだった。
流石に飽きてきたな、と思ったところでまた扉が現れた。そろそろ路地の終わりだろうか。自動ドアの前に立つと、ドアの向こうの景色は今までのとちょっと違っていた。
地下道みたいな下りの階段が続いている。電灯が点いていて明るいけれど、相当に長い階段なのか先の方がどうなっているのかはよく見えない。覗き込もうと自動ドアから半歩踏み出した足音がよく響いた。下の方からカビっぽい匂いのぬるい風が吹いてきて、俺の頬を撫でてそのまま空気に溶けた。
そこで急に冷静になった。路地を見つけた時の好奇心は完全に萎んでしまっていて、今何時かな、なんて帰りのことが気になり出す。早く帰らないと、行きつけのスーパーの惣菜が売り切れてしまう。今自分はどの辺にいるんだろうと地図アプリを開いて絶望する。圏外表示だ。
ここはどこだ。変な空間に迷い込んだなんて有り得ない妄想が急に現実味を帯びてくる。がくがくと震える足をどうにか踏ん張って、来た道を引き返し始めた。一本道なので間違うことは無いはず。大丈夫。自動ドアが内から開くかどうか確認しなかったことを後悔した。
幸いにも扉は全部問題なく開いたし、来た道は寸分たがわず引き返すことが出来た。いちばん最初の自動ドアでチャリを回収して路地を出ると、まちがいなく見知った通勤路に出る。ほっとして思わずチャリに寄りかかった。
家に帰って無事に手に入れた惣菜を食べつつ、今日の出来事を振り返る。特に怖いことは起こらなかったのに、最後は急に怖くなってしまった。思い返せば、俺は昔からそういうところがある。探検といって近所の竹林に入ってみたりして、途中まではやる気いっぱいなのに、ある程度進むと不安になった。迷子になったらどうしようとか、動物が出てきたらどうしようだとか。つまんねー人間だな、と自分で思うけれど、生まれつきの性質なんだろうから仕方ないし、身を守るすべとしては恐怖も重要なんだろう。
あれからもずっと同じバイト先に通っている。路地は相変わらずそこにある。たまに入ってみようかって思うけれども、いまだに再挑戦はできずにいる。
(子供のままで)