「失恋ぐらいで泣いたりしないし」
鼻を鳴らして、友人はたった今運ばれてきたレモンソーダを吸った。
「じゃあなんで呼んだの」
「は、何、泣かないと呼んじゃダメなの?」
「そうじゃないけど、こういう時って辛いものでしょ。慰めて欲しいのかなって」
ガンッ、と趣のある純喫茶で鳴っちゃいけない音がした。木製のテーブルにすごい勢いで落とされた彼女の拳が原因だ。衝撃で注文した飲み物たちがコースターからちょっとずれて、なみなみだった私のホットコーヒーは大さじ1杯ぶんくらい飛び散った。
「ふざけんな。あたしはそんななよなよしい女じゃない、人を馬鹿にするのも大概にしてよ」
明らかに、かなり怒っている。それでも声のトーンは控えめで、彼女が最大限周りに配慮してるのだと分かった。既に拳の音で周りのお客さんはぎょっとしてるんだけど。とにかく私は慌てて口を動かす。
「ごめん、怒らせるつもりじゃなかったの。辛くないのかなって思って……」
精一杯の弁明の言葉である。本気で怒らせるつもりはなかった。珍しく友人から「失恋したから話聞いて」なんて連絡をもらって、ちょっとだけ浮ついていた。まさか頼ってもらえるなんて思ってもいなかったから。大泣きしている彼女を勝手に頭に思い浮かべて、元気づけようと張り切りすぎたのが裏目に出たらしい。交友関係が下手くそなのは自覚があった。頭を下げると舌打ちの音が聞こえる。
「まじ、有り得ないから。あんたのそういうとこまじで嫌い」
「うん、ごめんね……」
「あんたが昔から思ったこと言っちゃう奴って言うことは知ってるけどさ、もうちょい自分の使う言葉のニュアンス気にした方がいいよ。友達無くすわよ」
「友達はあなたしか居ないもん」
「だっる」
綺麗な顔をぐちゃっと歪ませて、友人はそう吐き捨てた。どうしたらいいか分からなくなって、私はコーヒーを一口飲む。味の善し悪しは判別つかないが、インスタントのよりは匂いが濃い気がする。
「……」
気まずい空気が流れた。友人は不機嫌そうにカウンターの方を眺めている。もう一回謝った方がいいかな。さすがに落ち着かなくなって来た所で、「……別に」彼女が先に口を開いた。
「悲しいよりムカついたから誰かに愚痴りたかっただけ。……あんたいつでも暇そうだし、そんなんで誘って悪かったわよ」
いつも強気な彼女には珍しく、紡がれる言葉はぼそぼそと歯切れが悪い。
「ムカついたの?」
「だって2人で映画見に行ったり旅行までしたのに、『彼女がいるから』って振るのよ!?意味わかんない」
再びテーブルに拳が振り下ろされる。ごん、とまたいい音が響く。ウェイトレスがなにか言いたそうにこちらを見ているのが尻目に見えた。
「彼女いるって知らなかったの?」
「知らない、言われてない。絶対遊びかキープだったんだわ」
「言語化したら余計ムカついてきた!!」なんて口調を荒らげながら、友人は残りのレモンソーダをぐいっとあおる。もはやストローが意味を成していない。段々声量も上がっているし、そろそろお店側に何か言われても文句は言えないかもしれない。でもさっきの今で余計なことを言って怒らせたら元も子もないから、私は大人しくウンウンと頷くに留めておいた。
「しかもあたしが繋いだ後輩ちゃんと付き合ってるって何なの、もー絶対奢ってやんない」
「うん、紹介した後輩ちゃんと付き合うなんて酷いね」
「何その機械みたいな返し、絶対思ってないでしょあんた」
とりあえず頷いているだけなのはあっさりバレた。申し訳ないが、私は恋愛はおろかお悩み相談さえ経験不足である。ごめんと謝ると、「そんなすぐ謝るな」とまた怒られた。
「……ああ、でも口に出したらちょっとましになった。今度は絶対騙されるもんか」
いつの間にか、険しかった表情はだいぶ普通の顔になっている。自分の中で解決してしまったらしい。「あークソ!クソ喰らえ!」かなり子供っぽい捨て台詞を吐いて彼女はぐっと伸びをした。
「聞いてくれてありがと、一応お礼しとく」
「何もしてないけどね」
「まあ、あんただったからなりふり構わず吐き出せた気もするわ」
「……結局泣かなかったね」
あまりに綺麗に吹っ切れてしまっているさまをみて、私はぽろっと言ってしまった。友人が強い人間なのは知っていたけども、まさか失恋トークがこんなあっさり終わってしまうなんて。「まだそんなこと言ってんの」友人はまた眉間にしわを刻む。
「こんなので泣くわけないでしょ。泣くのはめちゃくちゃ心底惚れちゃうような人に振られた時に取っとくのよ」
友人はそう言って、今度は笑った。生命力に溢れていて、夏の花みたいな笑顔だ。私は見蕩れた。
「……うん、うん。それがいいね」
「振られるは否定しろ馬鹿」
あーもう、景気づけにデザート頼んじゃお、とメニューを捲り始めた彼女をぼんやり眺める。いつか彼女が本気の恋をしたその日、私はまたこうして呼び出して貰えるだろうか。
もしもの未来について想像する。彼女がたった一人を想って、声を枯らすほど号泣する。不機嫌な顔と笑った顔しか知らない私は、彼女の泣き顔を上手く思い浮かべることができない。きっと綺麗だろうということだけがわかる。鮮やかに怒って笑う人だから、泣き顔もきっとそうだ。
隣に居る人間を心底羨ましく思った。それが私だったら良いのに。
彼女に言えばだるいきもいって言われそうだな、なんて自分の思考にちょっと笑った。
(声が枯れるまで)
気になる人がいる。甘酸っぱいあれそれじゃなくて、よく見かけるって意味で気になっている。
そいつは学校の最寄り駅前、ドーナツ屋の交差点のところで弾き語りをしているらしかった。ここ数ヶ月、3日に1回ぐらいのペースで見る。交差点の端っこの方にマイクスタンドを立てて、アコースティックを弾いている。若い男で、たぶん俺と同じくらいの歳だと思う。比較的人通りの多い交差点なのに、そいつの周りに人がいるのを見たことがなかった。みんなそいつを見えてないみたいに顔を交差点の方に向けて、横断歩道の信号が変わるのを待っている。足元にはお菓子の缶が置いてあるけどおそらく中身は寂しいんだろう。
そいつのことを気になっているのは、誰にも聞いてもらえないのによくやるなって思うのもあるが、一番は前に通りがかったときにそいつの歌をちょっといいなと思ったからだった。歌ってるのは多分オリジナルソングだ。声は平凡なんだけど、明るいメロディと日々のちょっとしたことを歌詞にしているのが良かった。立ち止まろうとした足は、その瞬間に信号が変わったことと、見向きもしない人たちの雰囲気に押されて流された。それ以来、そいつの前で立ち止まれたことはない。遠目にそいつがいるのを認めてはい終わり。ださいけど、誰か止まってくれねーかな、と思うだけだった。
珍しく研究室の実験が長引いて帰りが遅くなった日だった。夜10時を回った平日の田舎の駅前は静かだ。バスから降りて交差点を渡ろうとした俺はびっくりして立ち止まった。
奴がギターを弾いていた。いつもは昼間に見かけるから、こんな時間にいるなんて予想外だった。街灯のちょっと下で、そいつはいつか聞いた歌を歌っている。
俺はあたりをそろそろと見回した。誰もいない。意を決してそいつの方に足を向けた。
俺が目の前に立つと、そいつはちょっとびっくりしたみたいな顔をして、でも歌うのはやめなかった。雨の日の夜の歌だった。傘を忘れて、コンビニでビニール傘を買うっていう、本当に歌にするほどのことでもない歌詞だった。でもやっぱり良かった。
そいつが最後のフレーズを歌い終える。俺は手を叩いた。
「びっくりした。お客さんなんて珍しいな」
「……実は前から見かけてたんだけど、勇気がなくて」
いい曲だったと伝えたら、そいつは「ありがと」と笑った。俺は知らずのうちに握りしめていた拳を解いた。
「聞いてもらえてよかったよ。今日でやめるつもりだったから」
「えっ!?」
予想外の一言に思わずでかい声が出た。そいつは困ったふうに頭をかいた。
「来年就活なんだよ。そろそろ本腰入れないとまずくてさ」
「そんな……」
「まー趣味でやってたけど結構満足できたし。これしてたおかげで彼女も出来たんだ。正直もういいかなって」
呆気にとられる俺を置いて、そいつはギターをケースにしまい出す。「聞いてくれてありがとな!」と言いのこして、気づいたらそいつは居なくなっていた。
俺は足を引きずって帰った。もっと早く聞いとくんだったとか、俺の勇気のちっぽけさとか、もっと早くあいつのこと知ってた奴が居たんだなとか、色んなことを考えてしまって、とにかく恥ずかしくて仕方なかった。しまいには「そんなに呆気なく辞める程のもんだったんだ」なんてそいつのことを責め立てたくなって、帰宅してすぐベッドに飛び込んで目と耳を塞いだ。自分が嫌になりそうだった。
考えたくなくても今日はそいつのことをぐるぐる考えてしまって仕方がない。気づいたら2回だけ聞いたあの曲が頭を回っていた。印象的なメロディは思い出せるのに歌詞はぼやけてて、やっぱりもっと聞いときゃ良かったって思った。
(やりたいこと)
だいたい 2ヶ月に一回くらいのペースで、国際郵便で封筒が届く。友人のひとりの仕業である。
バックパッカーの友人は、3年ほど前から世界じゅうを旅して回っている。元々は大学の同期だったのだが、教授に付いてインドに行ったっきり大学を辞めて帰ってこなくなった。もともと旅好きの気があったから、当時もああやっぱりか、という気持ちの方が大きかったのを覚えている。いまのところ、彼女が帰る予定はない。
封筒には、たいてい近況を報告する短い手紙と現地で撮った写真が入っている。友人は別に写真好きというわけじゃない。いくつか前の手紙で「何か送って欲しいものある?」と聞かれたので、「現像した写真が欲しい」と私がリクエストした。彼女はそれを守って送ってくれているのである。写真はいくらあってもかさばらないし、実際に景色を見てる気分になれるから好きだ。
今回のは山の写真だった。背の高い針葉樹がそこかしこに生えていて、上の方はちょっと雪を被っている。山は剣みたいに尖っていて、日本のなだらかな山とは全く違う装いだ。写真の裏にはヨセミテと書いてあった。どこだそれ。スマホで検索したら、アメリカの方にあるらしい。
私は写真をベッド横のコルクボードに刺した。友人から貰った写真は最新のものをここに飾って、古いのはファイリングして本棚にしまっている。ちなみに友人は写真が下手だ。画面に対して被写体が斜めになっていたり、写り切っていなかったり、ひどい時はぶれていたりする。今回のは山のてっぺんが画角からはみ出して見えなかった。自撮りをしようとして失敗したのだろう。取り直しをせずそのまま送ってくるあたりが彼女らしいと思う。ものぐさというか、せっかちなのである。自分の興味が向かないことに対して、彼女は驚くぐらいに淡白だ。
そんなやる気のない写真だが、私は毎度これを楽しみにしていた。好きでもない作業を私のために律儀にこなしてくれていると思うとむず痒いけど嬉しいし、何よりこうやって眺めていると、彼女の目から向こうの景色を見ているみたいな感覚になる。世界を飛び回る彼女の経験をお裾分けして貰っているみたいな。
自分の知らない土地に想いを馳せるうちに、彼女みたいに知らない土地を旅したくなることはたまにある。身体がうずいて、突発的に車を走らせてみたりすることもある。
けれども同時に、私はベッドに寝そべりながら写真を眺めるいまにほっとする。日本のこの街の大地に立っていることに対して、それはそれで安心と喜びを感じるのだ。友人が自由であることをいちばんにしているように、私にとっては根をはって生きる場所があることが大事なのだと思う。
ベッドで寝返りを打ちながら便箋の方を開く。ヨセミテは寒いけど良いところだよ。自然は綺麗だし初心者にも優しい。クマとかコヨーテも出るんだって。私はアライグマしか見られなかった。
友人の視点から脈絡なく綴られる旅の記録は楽しかった。最後まで読み終えたあと、少し考えて、私はメッセージアプリを開いた。友人のトーク履歴はずいぶん下の方にある。あんまり連絡がまめな方ではないのを知っていたので、最近はこちらから連絡を取ることをしていなかった。
でも、たまには良いか。トーク画面を開いて文章を打ち込んでいく。手紙の感想と、あと、ちょっと迷ったけど、私の近況も添えた。前から気になっていたパン屋に行ったというだけの話だ。パンの写真も送った。パンは色んなキャラクターの形があって可愛かった。
私が友人を通して世界の景色を見ているみたいに、彼女も私の日常を楽しんでくれたら嬉しいな、なんて。
既読は直ぐについた。
『知らないパン屋!帰ったら案内して』
なんだかじわじわ嬉しくなって、私は布団を被って笑い声を噛み殺した。
(終わりなき旅)
「彼女と旅行行くから一週間だけペット預かってくれないか」と友人に頼まれた。動物は好きなので快諾したら、旅行前日に家までやってきたそいつに渡されたのは空っぽのケージだった。
「何もいねえけど」
「居るよ、ほら」
ケージに手を突っ込んだ友人が、何かを抱き抱えるみたいなポーズで両腕を差し出す。ふざけてんのかな、って思ったけど、友人の表情はいたってふつうだ。俺は恐る恐る手を差し出した。
「うわ」
友人の腕から10センチほど上のところで、信じられないことに指先に柔らかい感触がする。こわごわ抱きかかえると、暖かい体温ともぞもぞと動くのが伝わってきた。
「何だこれ……」
「名前はタロウっていうんだ」
「名前じゃなくて」
友人は聞く耳を持たない。俺にはわかる。今、こいつは確実に彼女とのデートに意識が持っていかれている。友人は「エサはこれ1日2回、朝と晩に頼むわ。余裕あったら散歩してやってくれ」と世話用のものだけ寄越して、じゃーな!と突風のようなスピードで去っていった。
えたいの知れない生物とふたりきりになったアパートはえらく静かだ。ひとりと一匹か。いや、『匹』なのかな。ケージは猫か小型犬くらいは入るかなというサイズなので、恐らくそんなに大きくはないだろう。体重も片手でも持てそうなくらいの重さしかない。腕の中にいるはずの生き物を見下ろす。人馴れしているのか、そいつは随分おとなしく、身動きひとつせずそこにいる。
「タロウっていったっけ」
ぴく、と動く気配がする。多分生き物は腕の中からこっちを見あげている。目が合っているかは分からないけど、俺はなるべく視線を合わせるようにつとめて挨拶した。
「一週間よろしくな」
ぴるぴる、とおもちゃの笛みたいな音がした。後になってそれがタロウの鳴き声ってことに気がついた。
タロウと暮らして4日が経った。さすがにちょっと慣れてきて、いろいろわかったことがある。まず、活動時間についてだ。タロウは朝がすごく早い。四時になると急造の毛布の巣を抜け出して、ぴるぴる鳴き出す。毎朝きっかり四時である。放っておくとずっと鳴き続けるので、かわいそうになって俺はしぶしぶベッドを出てエサの準備をする。
主食は友人に渡されたペレットなのだが、旅行中のやつから「野菜とかも食べる」とメッセージが送られてきたので、あわせて野菜の切れ端もあげている。浅い小皿に入れて水と一緒に地面に置くと、軽い足音が近づいてきて、餌がどんどん虚空に消えていく。あんまりじっと見ると食べづらいだろうとちらちら見るに留めているけど、これがすごく不思議で面白い。
完全に空になったのを見届けたら皿を片付ける。このとき、というかタロウとの生活全般で注意しないといけないのが歩く導線だ。メシや寝てる時以外、タロウがどこにいるか把握するすべはほとんどない。一歩間違えるとタロウを踏みかねないのである。前に一度だけしっぽと思われる部分を軽く踏んづけてしまったらしく、車のクラクションみたいな音で鳴かれた。以来、一歩一歩慎重に足を踏み出すように気を張っている。
それから、タロウは外が好きだ。頼まれた手前、散歩にも連れて行ってやりたいなとは思っていたが、リードなんかは渡されていないので手詰まった。渡されたとてタロウの首がどこなのか分からないので付けようがないのだけども。
「散歩ってどうやんの」と友人に訊くと、「抱いて外歩くだけでいい」と返ってきた。曰く、運動量じゃなくて日光を浴びるのが大事なんだそうだ。
早速抱っこして近所を歩いてみると、分かりやすくタロウの様子が変わった。ウクレレの弦を弾いた時のような声で鳴きながら、一定のペースで横に揺れるのだ。全然分からないけど、相当ご機嫌なんだろう。面白くなって予定より遠くの公園まで歩いて行ったら、ランニングしているおじいさんに話しかけられた。
「おっ、可愛いネコだねえ」
「え、見えるんですか」
「そりゃあねえ」
おじいさんはにこにこしてそのまま走り去ってしまった。それで分かったのだが、どうやらタロウは俺以外には見えるらしかった。ただし不思議なことに、タロウの姿についての証言はみんな一致しない。「かわいいワンちゃんね」と言われることもあれば、「うさぎなんて連れてどこ行くの」と聞かれることもある。タロウの外見がよっぽど紛らわしいのか、それとも人によってタロウの姿が違って見えるのかはわからない。
日課となった散歩から帰宅して、ぱくぱくとエサを食べる姿をぼんやり眺める。相変わらずエサは空中に消えていくばかりで、タロウの姿はさっぱり見えない。
姿を確認するすべは、どういう訳か俺には無いらしい。
「あっ、かわいいトイプードル!」
「え、ポメじゃなかった?」
「馬鹿!どう見てもパンダでしょ!動物園関係の人かなあ」
ひそひそ言い合う女子高生の横を会釈して通り過ぎる。6日目。あと一日でタロウとはお別れだ。ここまで来ると見えないのが悔しくなってくる。
帰宅してタロウを降ろすと、タロウがとたとたと室内に入っていく音がした。俺はその場でしゃがんだ。部屋の奥を目をすがめてじっと見る。
ーー景色は変わらない。
「駄目かあ……」
脱力して腰を下ろす。明日の夜には友人が迎えに来て、タロウとはしばらく会えなくなる。もうだいぶ愛着が湧いてしまっていて、最後まで自分だけがタロウを認識できないのは何だか寂しかった。俯いていると、床を跳ねる音が近づいてくる。腕にふわふわした細長いものが巻きついた。
「しっぽかな……」
へへ、と思わず笑った。賢いやつなので、多分心配してるくれているんだと思う。手探りで体を撫でると、こっちに擦り寄ってきた。
夜ご飯はフルーツの盛り合わせにした。さしあたってのタロウとの最後の晩餐なので、気合いを入れたのだ。特にバナナへの食いつきが凄まじく、用意していたひと房をものの数分で食べてしまった。そういえばゴリラに間違われたことはなかったな、なんて散歩のことを思い返したりした。
夕食が終わると、タロウが眠りそうな気配がした。ぴるぴるという鳴き声が低くなって、ぐるぐるという猫が喉を鳴らすみたいな音を立てている。いつもだったらこのまま自分で寝床に入るか俺の膝で丸くなって巣に運ばれるかなのだが、俺はちょっと考えて、タロウを抱き上げて自分のにベッドに連れていった。最後くらいいいかな、と思って。タロウも抵抗しなかったから、電気を消してひとりと一匹で布団を被った。タロウの体温が心地良かった。
翌日、友人に連れられてタロウは自分の家に帰った。帰ってきた友人を見たタロウは一目散にやつの方に駆けて行った。当然といえば当然なんだけども、まあまあ妬けてしまう。それでもお別れの時にはぴるぴる鳴いてくれたので、まあ、タロウにとっても悪くない7日間だったのかなって思う。
あれ以来、たまに友人がタロウの写真を送ってくれるようになった。写真に撮られてもやっぱりタロウの姿は見えないんだけども、何故かそこにいるのは分かるので結構楽しみだったりする。来週、家に遊びに行く予定も出来た。予定が決まってすぐバナナを買い込んでしまったのは秘密だ。
(透明)
「コンプレックス?あるよ?」
大きな尾ひれを扇であおぐようにぱたぱたさせて、友達の人魚はそう言った。
彼女とわたしは10年来の親友だ。わたしが海女をしていた頃に偶然海で出会って、それから何度も獲物を奪い合った仲である。そのうちすっかり意気投合し、漁に出るたびに彼女が会いに来てくれるようになった。わたしが転職してOLになった今でも、週末はこうやって岸辺に集まっておしゃべりをしている。
「あの漁師がかっこいい」だの「今年の社員旅行オホーツク海現地集合でめんどい」だのと取り留めのないいつもの会話の中で、わたしが海女を辞めてから下腹が気になるという話をした。「あなたはいくつになっても可愛くていいよねえ」と言うと、彼女が冒頭のように返したのだった。
わたしは彼女をまじまじと見る。華奢な腕に白い肌、濡れ羽色の髪は長く美しく、顔立ちも絵画みたいに整っている。彼女にもコンプレックスがあるなんて。
「エラ呼吸がね、苦手なの」
「エラ呼吸」
「出来ないことはないんだけどねえ」
ほら、と彼女は首の辺りを指で指す。よく見ると、たしかに薄桃色の切れ込みのようなものがそこにある。
「人魚ってエラ呼吸なんだ」
「そうだよ。じゃないといちいち海面まで上がってこなきゃいけなくて面倒でしょ?」
「確かに……」
言われてみればそうだけども。ちょっと思ってもみない方向からのレスポンスである。
「ていうかあんたはそれできないんだ……」
「あ、馬鹿にしたー。エラ呼吸出来なくたって5時間くらいは息が持つから困んないし」
「すごいね」
「エラ呼吸できる人魚って実際は八割くらいしか居ないんだよ」
「もしかしてラーメンすすれるすすれないぐらいの感覚?」
「あーあ。人間はいいよねえ、エラ呼吸無くても困んないもの」
「そこで人間が羨ましがられることあるんだ……」
隣の芝は青いってやつなのだろうか。うーん、ちょっと違う気がする。テトラポットにもたれて不貞腐れてしまった彼女をとりあえず元気づけたくて、「今度ガスボンべ買ってこようか?」なんてよく分からない慰め方をした。
(理想のあなた)