口に入れると、しゃくっという音と一緒に口の中に果汁が広がる。口触りはりんごよりもずいぶん水っぽくさらさらしているのに、りんごよりいっそう強く香って喉奥に消えていく。果実は、驚くことに2、3度ほど噛むだけで形がなくなって、たちまちすべてジュースになってしまう。
まるで雪だ。梨を食べていると、小さい頃、近所の垣根の上に積もった雪を集めて頬張っていたことを思い出す。せっかくふわふわしていたのに、素手で固めたせいでざらざらに固まってしまった雪。それでも、口に入れるとしゃく、と軽い音がして、すぐに溶けて喉を伝っていった感触。梨と違って無味なのに、踏み荒らされていない雪だまりを見つけては飽きずに口に入れていた。当時の私は雪は白ければすべて綺麗だという衛生観念で生きていたし、冬にどれだけ体内に冷たいものを入れようが身体は芯から暖かかった。
梨を食いながら外を眺める。屋外は雨だ。私の住む地域はこれからどんどん雨が多くなって、やがて雪が降る。
食べ終わった皿をシンクに下げた。梨を食ったことで少し下がった体温を誤魔化すように手を摩る。立ち上がったついでに茶でも淹れようか。
随分寒くなった。
(梨)
「なんか食いたくてコンビニとか入るとさあ、意味もなく何周もしちゃわねえ?」
高校に入学して3週目、木曜の昼休みだ。俺はもっぱらつるむ相手になった菊池と教室でメシを食っていた。菊池は俺と席が前後だったんで、たまたま喋るようになった。こいつが菊池で俺は黒田。「俺たち、メジャーリーガーって感じの名前じゃね?」とぼそっと言った俺に、「もしくは広島かな」と菊池が返してきたんで、絶対ノリが合う奴だと確信した。
私立っていうこともあって、まあまあ豪華な学食に最初はテンションが上がって食いに行ったりしてたんだけど、段々食堂の人の多さの嫌さが勝つようになってきた。それで最近は教室で昼飯を済ませている。
自分の席について弁当の蓋を開ける俺の目で、菊池は自分の椅子を俺の方に向けもせず、逆向きに椅子に跨って、背もたれに上半身をあずけている。自分のリュックから引っ張り出したコンビニのメロンパンの袋をだるそうに開けるのを見て、ふと思いついた話題を振ってみた。
「腹減ってはいるからお菓子の棚んとこ行くんだけどさ、いざ目の前にすると何故か、今日これの気分じゃねえなってなんの。でももうなんか買おうって1回決めてるからさあ、絶対何かは買いたくてコンビニの中をぐるぐるしちゃうんだよな」
「あー」
菊池は顎を擦りながら上を向く。 自分の行動を思い出しているらしい。
「いや、無いな」
「無いんだ」
「おん。入って食いたいもの無かったらすぐ出るかも」
「お前凄いな」
俺は大抵食い意地の方に負けて、チルドとお菓子コーナーを行ったり来たりしてしまうタイプだ。何周もするくせに、結局レジ横のホットスナックの誘惑に引っかかってチキンを買ってしまう。そういう話をすると、菊池は「じゃあ最初からチキンでいいだろ」と笑った。
「まあそうなんだけどさ、他のコーナーでも時々見てるうちにビビッと来る時があんの。今日はこれの気分だったんだ!って」
「あー、それは分かるな。店に入るまでは思いついてないんだけど、見た瞬間これだ!って思うんだよな」
うんうん。相槌を打ちながら、菊池は俺の弁当を覗き込む。右手が卵焼きをひとつ掠め取っていった。
「あっ、お前」
「悪いな、ビビッと来たんだよ」
菊池はしれっとした顔で卵焼きを咀嚼する。憎たらしい。自分はメロンパンひとつなのでおかずを奪い返すことが出来ないのが悪質だ。
「後で古典の宿題見せろよな……」
「いいけど保証しねーよ」
そんな話をしながらだらだらとやる。
昼休みはまだ続く。高校生活は始まったばかりだけども、既に俺はこの時間を気に入り始めている。
キモいんで本人には言わないけど、菊池と最初に話したときから俺の中では結構、ビビッと来ている。こいつとはいい友達になれるって。先のことは分からない。でもこの先こうやって昼休みにだべっていられたら、まあ悪くないよなって思う。
菊池に奪われる前に唐揚げを食いながら、明日は「そういえば部活決めた?」と聞いてみようと思った。
(巡り逢い)
「失恋ぐらいで泣いたりしないし」
鼻を鳴らして、友人はたった今運ばれてきたレモンソーダを吸った。
「じゃあなんで呼んだの」
「は、何、泣かないと呼んじゃダメなの?」
「そうじゃないけど、こういう時って辛いものでしょ。慰めて欲しいのかなって」
ガンッ、と趣のある純喫茶で鳴っちゃいけない音がした。木製のテーブルにすごい勢いで落とされた彼女の拳が原因だ。衝撃で注文した飲み物たちがコースターからちょっとずれて、なみなみだった私のホットコーヒーは大さじ1杯ぶんくらい飛び散った。
「ふざけんな。あたしはそんななよなよしい女じゃない、人を馬鹿にするのも大概にしてよ」
明らかに、かなり怒っている。それでも声のトーンは控えめで、彼女が最大限周りに配慮してるのだと分かった。既に拳の音で周りのお客さんはぎょっとしてるんだけど。とにかく私は慌てて口を動かす。
「ごめん、怒らせるつもりじゃなかったの。辛くないのかなって思って……」
精一杯の弁明の言葉である。本気で怒らせるつもりはなかった。珍しく友人から「失恋したから話聞いて」なんて連絡をもらって、ちょっとだけ浮ついていた。まさか頼ってもらえるなんて思ってもいなかったから。大泣きしている彼女を勝手に頭に思い浮かべて、元気づけようと張り切りすぎたのが裏目に出たらしい。交友関係が下手くそなのは自覚があった。頭を下げると舌打ちの音が聞こえる。
「まじ、有り得ないから。あんたのそういうとこまじで嫌い」
「うん、ごめんね……」
「あんたが昔から思ったこと言っちゃう奴って言うことは知ってるけどさ、もうちょい自分の使う言葉のニュアンス気にした方がいいよ。友達無くすわよ」
「友達はあなたしか居ないもん」
「だっる」
綺麗な顔をぐちゃっと歪ませて、友人はそう吐き捨てた。どうしたらいいか分からなくなって、私はコーヒーを一口飲む。味の善し悪しは判別つかないが、インスタントのよりは匂いが濃い気がする。
「……」
気まずい空気が流れた。友人は不機嫌そうにカウンターの方を眺めている。もう一回謝った方がいいかな。さすがに落ち着かなくなって来た所で、「……別に」彼女が先に口を開いた。
「悲しいよりムカついたから誰かに愚痴りたかっただけ。……あんたいつでも暇そうだし、そんなんで誘って悪かったわよ」
いつも強気な彼女には珍しく、紡がれる言葉はぼそぼそと歯切れが悪い。
「ムカついたの?」
「だって2人で映画見に行ったり旅行までしたのに、『彼女がいるから』って振るのよ!?意味わかんない」
再びテーブルに拳が振り下ろされる。ごん、とまたいい音が響く。ウェイトレスがなにか言いたそうにこちらを見ているのが尻目に見えた。
「彼女いるって知らなかったの?」
「知らない、言われてない。絶対遊びかキープだったんだわ」
「言語化したら余計ムカついてきた!!」なんて口調を荒らげながら、友人は残りのレモンソーダをぐいっとあおる。もはやストローが意味を成していない。段々声量も上がっているし、そろそろお店側に何か言われても文句は言えないかもしれない。でもさっきの今で余計なことを言って怒らせたら元も子もないから、私は大人しくウンウンと頷くに留めておいた。
「しかもあたしが繋いだ後輩ちゃんと付き合ってるって何なの、もー絶対奢ってやんない」
「うん、紹介した後輩ちゃんと付き合うなんて酷いね」
「何その機械みたいな返し、絶対思ってないでしょあんた」
とりあえず頷いているだけなのはあっさりバレた。申し訳ないが、私は恋愛はおろかお悩み相談さえ経験不足である。ごめんと謝ると、「そんなすぐ謝るな」とまた怒られた。
「……ああ、でも口に出したらちょっとましになった。今度は絶対騙されるもんか」
いつの間にか、険しかった表情はだいぶ普通の顔になっている。自分の中で解決してしまったらしい。「あークソ!クソ喰らえ!」かなり子供っぽい捨て台詞を吐いて彼女はぐっと伸びをした。
「聞いてくれてありがと、一応お礼しとく」
「何もしてないけどね」
「まあ、あんただったからなりふり構わず吐き出せた気もするわ」
「……結局泣かなかったね」
あまりに綺麗に吹っ切れてしまっているさまをみて、私はぽろっと言ってしまった。友人が強い人間なのは知っていたけども、まさか失恋トークがこんなあっさり終わってしまうなんて。「まだそんなこと言ってんの」友人はまた眉間にしわを刻む。
「こんなので泣くわけないでしょ。泣くのはめちゃくちゃ心底惚れちゃうような人に振られた時に取っとくのよ」
友人はそう言って、今度は笑った。生命力に溢れていて、夏の花みたいな笑顔だ。私は見蕩れた。
「……うん、うん。それがいいね」
「振られるは否定しろ馬鹿」
あーもう、景気づけにデザート頼んじゃお、とメニューを捲り始めた彼女をぼんやり眺める。いつか彼女が本気の恋をしたその日、私はまたこうして呼び出して貰えるだろうか。
もしもの未来について想像する。彼女がたった一人を想って、声を枯らすほど号泣する。不機嫌な顔と笑った顔しか知らない私は、彼女の泣き顔を上手く思い浮かべることができない。きっと綺麗だろうということだけがわかる。鮮やかに怒って笑う人だから、泣き顔もきっとそうだ。
隣に居る人間を心底羨ましく思った。それが私だったら良いのに。
彼女に言えばだるいきもいって言われそうだな、なんて自分の思考にちょっと笑った。
(声が枯れるまで)
気になる人がいる。甘酸っぱいあれそれじゃなくて、よく見かけるって意味で気になっている。
そいつは学校の最寄り駅前、ドーナツ屋の交差点のところで弾き語りをしているらしかった。ここ数ヶ月、3日に1回ぐらいのペースで見る。交差点の端っこの方にマイクスタンドを立てて、アコースティックを弾いている。若い男で、たぶん俺と同じくらいの歳だと思う。比較的人通りの多い交差点なのに、そいつの周りに人がいるのを見たことがなかった。みんなそいつを見えてないみたいに顔を交差点の方に向けて、横断歩道の信号が変わるのを待っている。足元にはお菓子の缶が置いてあるけどおそらく中身は寂しいんだろう。
そいつのことを気になっているのは、誰にも聞いてもらえないのによくやるなって思うのもあるが、一番は前に通りがかったときにそいつの歌をちょっといいなと思ったからだった。歌ってるのは多分オリジナルソングだ。声は平凡なんだけど、明るいメロディと日々のちょっとしたことを歌詞にしているのが良かった。立ち止まろうとした足は、その瞬間に信号が変わったことと、見向きもしない人たちの雰囲気に押されて流された。それ以来、そいつの前で立ち止まれたことはない。遠目にそいつがいるのを認めてはい終わり。ださいけど、誰か止まってくれねーかな、と思うだけだった。
珍しく研究室の実験が長引いて帰りが遅くなった日だった。夜10時を回った平日の田舎の駅前は静かだ。バスから降りて交差点を渡ろうとした俺はびっくりして立ち止まった。
奴がギターを弾いていた。いつもは昼間に見かけるから、こんな時間にいるなんて予想外だった。街灯のちょっと下で、そいつはいつか聞いた歌を歌っている。
俺はあたりをそろそろと見回した。誰もいない。意を決してそいつの方に足を向けた。
俺が目の前に立つと、そいつはちょっとびっくりしたみたいな顔をして、でも歌うのはやめなかった。雨の日の夜の歌だった。傘を忘れて、コンビニでビニール傘を買うっていう、本当に歌にするほどのことでもない歌詞だった。でもやっぱり良かった。
そいつが最後のフレーズを歌い終える。俺は手を叩いた。
「びっくりした。お客さんなんて珍しいな」
「……実は前から見かけてたんだけど、勇気がなくて」
いい曲だったと伝えたら、そいつは「ありがと」と笑った。俺は知らずのうちに握りしめていた拳を解いた。
「聞いてもらえてよかったよ。今日でやめるつもりだったから」
「えっ!?」
予想外の一言に思わずでかい声が出た。そいつは困ったふうに頭をかいた。
「来年就活なんだよ。そろそろ本腰入れないとまずくてさ」
「そんな……」
「まー趣味でやってたけど結構満足できたし。これしてたおかげで彼女も出来たんだ。正直もういいかなって」
呆気にとられる俺を置いて、そいつはギターをケースにしまい出す。「聞いてくれてありがとな!」と言いのこして、気づいたらそいつは居なくなっていた。
俺は足を引きずって帰った。もっと早く聞いとくんだったとか、俺の勇気のちっぽけさとか、もっと早くあいつのこと知ってた奴が居たんだなとか、色んなことを考えてしまって、とにかく恥ずかしくて仕方なかった。しまいには「そんなに呆気なく辞める程のもんだったんだ」なんてそいつのことを責め立てたくなって、帰宅してすぐベッドに飛び込んで目と耳を塞いだ。自分が嫌になりそうだった。
考えたくなくても今日はそいつのことをぐるぐる考えてしまって仕方がない。気づいたら2回だけ聞いたあの曲が頭を回っていた。印象的なメロディは思い出せるのに歌詞はぼやけてて、やっぱりもっと聞いときゃ良かったって思った。
(やりたいこと)
だいたい 2ヶ月に一回くらいのペースで、国際郵便で封筒が届く。友人のひとりの仕業である。
バックパッカーの友人は、3年ほど前から世界じゅうを旅して回っている。元々は大学の同期だったのだが、教授に付いてインドに行ったっきり大学を辞めて帰ってこなくなった。もともと旅好きの気があったから、当時もああやっぱりか、という気持ちの方が大きかったのを覚えている。いまのところ、彼女が帰る予定はない。
封筒には、たいてい近況を報告する短い手紙と現地で撮った写真が入っている。友人は別に写真好きというわけじゃない。いくつか前の手紙で「何か送って欲しいものある?」と聞かれたので、「現像した写真が欲しい」と私がリクエストした。彼女はそれを守って送ってくれているのである。写真はいくらあってもかさばらないし、実際に景色を見てる気分になれるから好きだ。
今回のは山の写真だった。背の高い針葉樹がそこかしこに生えていて、上の方はちょっと雪を被っている。山は剣みたいに尖っていて、日本のなだらかな山とは全く違う装いだ。写真の裏にはヨセミテと書いてあった。どこだそれ。スマホで検索したら、アメリカの方にあるらしい。
私は写真をベッド横のコルクボードに刺した。友人から貰った写真は最新のものをここに飾って、古いのはファイリングして本棚にしまっている。ちなみに友人は写真が下手だ。画面に対して被写体が斜めになっていたり、写り切っていなかったり、ひどい時はぶれていたりする。今回のは山のてっぺんが画角からはみ出して見えなかった。自撮りをしようとして失敗したのだろう。取り直しをせずそのまま送ってくるあたりが彼女らしいと思う。ものぐさというか、せっかちなのである。自分の興味が向かないことに対して、彼女は驚くぐらいに淡白だ。
そんなやる気のない写真だが、私は毎度これを楽しみにしていた。好きでもない作業を私のために律儀にこなしてくれていると思うとむず痒いけど嬉しいし、何よりこうやって眺めていると、彼女の目から向こうの景色を見ているみたいな感覚になる。世界を飛び回る彼女の経験をお裾分けして貰っているみたいな。
自分の知らない土地に想いを馳せるうちに、彼女みたいに知らない土地を旅したくなることはたまにある。身体がうずいて、突発的に車を走らせてみたりすることもある。
けれども同時に、私はベッドに寝そべりながら写真を眺めるいまにほっとする。日本のこの街の大地に立っていることに対して、それはそれで安心と喜びを感じるのだ。友人が自由であることをいちばんにしているように、私にとっては根をはって生きる場所があることが大事なのだと思う。
ベッドで寝返りを打ちながら便箋の方を開く。ヨセミテは寒いけど良いところだよ。自然は綺麗だし初心者にも優しい。クマとかコヨーテも出るんだって。私はアライグマしか見られなかった。
友人の視点から脈絡なく綴られる旅の記録は楽しかった。最後まで読み終えたあと、少し考えて、私はメッセージアプリを開いた。友人のトーク履歴はずいぶん下の方にある。あんまり連絡がまめな方ではないのを知っていたので、最近はこちらから連絡を取ることをしていなかった。
でも、たまには良いか。トーク画面を開いて文章を打ち込んでいく。手紙の感想と、あと、ちょっと迷ったけど、私の近況も添えた。前から気になっていたパン屋に行ったというだけの話だ。パンの写真も送った。パンは色んなキャラクターの形があって可愛かった。
私が友人を通して世界の景色を見ているみたいに、彼女も私の日常を楽しんでくれたら嬉しいな、なんて。
既読は直ぐについた。
『知らないパン屋!帰ったら案内して』
なんだかじわじわ嬉しくなって、私は布団を被って笑い声を噛み殺した。
(終わりなき旅)