気になる人がいる。甘酸っぱいあれそれじゃなくて、よく見かけるって意味で気になっている。
そいつは学校の最寄り駅前、ドーナツ屋の交差点のところで弾き語りをしているらしかった。ここ数ヶ月、3日に1回ぐらいのペースで見る。交差点の端っこの方にマイクスタンドを立てて、アコースティックを弾いている。若い男で、たぶん俺と同じくらいの歳だと思う。比較的人通りの多い交差点なのに、そいつの周りに人がいるのを見たことがなかった。みんなそいつを見えてないみたいに顔を交差点の方に向けて、横断歩道の信号が変わるのを待っている。足元にはお菓子の缶が置いてあるけどおそらく中身は寂しいんだろう。
そいつのことを気になっているのは、誰にも聞いてもらえないのによくやるなって思うのもあるが、一番は前に通りがかったときにそいつの歌をちょっといいなと思ったからだった。歌ってるのは多分オリジナルソングだ。声は平凡なんだけど、明るいメロディと日々のちょっとしたことを歌詞にしているのが良かった。立ち止まろうとした足は、その瞬間に信号が変わったことと、見向きもしない人たちの雰囲気に押されて流された。それ以来、そいつの前で立ち止まれたことはない。遠目にそいつがいるのを認めてはい終わり。ださいけど、誰か止まってくれねーかな、と思うだけだった。
珍しく研究室の実験が長引いて帰りが遅くなった日だった。夜10時を回った平日の田舎の駅前は静かだ。バスから降りて交差点を渡ろうとした俺はびっくりして立ち止まった。
奴がギターを弾いていた。いつもは昼間に見かけるから、こんな時間にいるなんて予想外だった。街灯のちょっと下で、そいつはいつか聞いた歌を歌っている。
俺はあたりをそろそろと見回した。誰もいない。意を決してそいつの方に足を向けた。
俺が目の前に立つと、そいつはちょっとびっくりしたみたいな顔をして、でも歌うのはやめなかった。雨の日の夜の歌だった。傘を忘れて、コンビニでビニール傘を買うっていう、本当に歌にするほどのことでもない歌詞だった。でもやっぱり良かった。
そいつが最後のフレーズを歌い終える。俺は手を叩いた。
「びっくりした。お客さんなんて珍しいな」
「……実は前から見かけてたんだけど、勇気がなくて」
いい曲だったと伝えたら、そいつは「ありがと」と笑った。俺は知らずのうちに握りしめていた拳を解いた。
「聞いてもらえてよかったよ。今日でやめるつもりだったから」
「えっ!?」
予想外の一言に思わずでかい声が出た。そいつは困ったふうに頭をかいた。
「来年就活なんだよ。そろそろ本腰入れないとまずくてさ」
「そんな……」
「まー趣味でやってたけど結構満足できたし。これしてたおかげで彼女も出来たんだ。正直もういいかなって」
呆気にとられる俺を置いて、そいつはギターをケースにしまい出す。「聞いてくれてありがとな!」と言いのこして、気づいたらそいつは居なくなっていた。
俺は足を引きずって帰った。もっと早く聞いとくんだったとか、俺の勇気のちっぽけさとか、もっと早くあいつのこと知ってた奴が居たんだなとか、色んなことを考えてしまって、とにかく恥ずかしくて仕方なかった。しまいには「そんなに呆気なく辞める程のもんだったんだ」なんてそいつのことを責め立てたくなって、帰宅してすぐベッドに飛び込んで目と耳を塞いだ。自分が嫌になりそうだった。
考えたくなくても今日はそいつのことをぐるぐる考えてしまって仕方がない。気づいたら2回だけ聞いたあの曲が頭を回っていた。印象的なメロディは思い出せるのに歌詞はぼやけてて、やっぱりもっと聞いときゃ良かったって思った。
(やりたいこと)
6/11/2024, 9:53:13 AM