「コンプレックス?あるよ?」
大きな尾ひれを扇であおぐようにぱたぱたさせて、友達の人魚はそう言った。
彼女とわたしは10年来の親友だ。わたしが海女をしていた頃に偶然海で出会って、それから何度も獲物を奪い合った仲である。そのうちすっかり意気投合し、漁に出るたびに彼女が会いに来てくれるようになった。わたしが転職してOLになった今でも、週末はこうやって岸辺に集まっておしゃべりをしている。
「あの漁師がかっこいい」だの「今年の社員旅行オホーツク海現地集合でめんどい」だのと取り留めのないいつもの会話の中で、わたしが海女を辞めてから下腹が気になるという話をした。「あなたはいくつになっても可愛くていいよねえ」と言うと、彼女が冒頭のように返したのだった。
わたしは彼女をまじまじと見る。華奢な腕に白い肌、濡れ羽色の髪は長く美しく、顔立ちも絵画みたいに整っている。彼女にもコンプレックスがあるなんて。
「エラ呼吸がね、苦手なの」
「エラ呼吸」
「出来ないことはないんだけどねえ」
ほら、と彼女は首の辺りを指で指す。よく見ると、たしかに薄桃色の切れ込みのようなものがそこにある。
「人魚ってエラ呼吸なんだ」
「そうだよ。じゃないといちいち海面まで上がってこなきゃいけなくて面倒でしょ?」
「確かに……」
言われてみればそうだけども。ちょっと思ってもみない方向からのレスポンスである。
「ていうかあんたはそれできないんだ……」
「あ、馬鹿にしたー。エラ呼吸出来なくたって5時間くらいは息が持つから困んないし」
「すごいね」
「エラ呼吸できる人魚って実際は八割くらいしか居ないんだよ」
「もしかしてラーメンすすれるすすれないぐらいの感覚?」
「あーあ。人間はいいよねえ、エラ呼吸無くても困んないもの」
「そこで人間が羨ましがられることあるんだ……」
隣の芝は青いってやつなのだろうか。うーん、ちょっと違う気がする。テトラポットにもたれて不貞腐れてしまった彼女をとりあえず元気づけたくて、「今度ガスボンべ買ってこようか?」なんてよく分からない慰め方をした。
(理想のあなた)
5/21/2024, 8:45:24 AM