あっ、と気づいた時には、右耳のピアスは姿を消してしまっていた。やけに耳が軽いなと思ったのが30分前。耳たぶを手探りで触ってみたが、あるはずの金属の感触がそこに無い。あわてて姿見で確認すれば、左耳と同じデザインのピアスは影も形も見当たらなかった。今日はまだ家を出ていないから、間違いなく室内のどこかに居るはずなのだけれども、布団をひっくりかえしてもカーペットをひん剥いてもピアスは見つからない。ひとしきり部屋をぐちゃぐちゃにした所で、私は捜索を一旦諦めた。
商店街のテナントに最近入ったオーダーメイドの雑貨屋で、たった3週間前に買ったピアスだった。蝶を象った小ぶりの飾りが付いていて、ピアスが揺れる度にガラスで出来た羽が虹色にきらめいた。もうそんなの、一目惚れだ。私は値札も見ずに購入を決めた。結局ピアスは普段のショップの3倍の値段で、手痛い出費ではあったのだが……そうだ、手痛い出費だったのだ。
がっくりと肩を落とすと、ちり、と左耳のピアスが音を立てた。そういえばこっちは無事だったのか。壁にかけた姿見に、耳元でピアスが揺れているのが映る。相棒を失った蝶は、所在なさげに耳元で羽ばたいている。
寂しいのかな。何となくそんなふうに思った。ひょっとしたら右の蝶はもうこの部屋から飛び立ってしまって、左の蝶はそれを追いかけたがっているのかもしれない。本当は今すぐここから飛び出してしまいたいけれど、持ち主の私に遠慮して、ここに留まってくれているのかも。
やけにポエチックな妄想がどんどん膨らんで、段々それが真実のように思えてきた。一人置いていかれるなんてかわいそうだ。私はリビングの窓を少しだけ開けると、左耳の蝶を外してそっと窓のさんに乗せた。蝶は横たわったまま、夕暮れの光を大人しく反射させている。私はそれをちょっと眺めてから、予定の時間が迫っていることに気がついて家を出た。
家に帰ると、窓際の蝶は居なくなっていた。本当に飛び立ってしまったのかは分からない。窓からカラスなんかが持っていってしまった可能性もある。ぼんやり眺めいていると、ふと、さんの端が月光を受けて光った。七色の反射光が彼らの置き土産みたいで、寂しい気持ちと一緒に、少しいいことをしたような気分で心が満たされた。
(突然の別れ)
日曜の朝刊に挟まって今日の特売を宣伝するのが仕事の俺は、役目を終えればクーポンのところだけ切り取られて再生紙に回される運命だった。はずなんだが、ご子息の手によってあれよあれよという間に改造されて、いつの間にか彼のお気に入りの一機に姿を変えていた。彼は中々ベテランのエンジニアらしく、ジェット機を思わせる細身の機体はシンプルだが無駄なく正確に設計されている。翼にはカミナリの意匠が施されて、自分でいうのも何だが中々イケているではないか。
早速お披露目のためにご子息と一緒に公園へ向かう。空は快晴、少し強めの南風が心地いい。絶好のフライト日和だ。芝生の真ん中に立ったご子息が俺を構える。テイクオフ。
正確なタイミングとスピードで打ち出されて、俺は南風に乗ってすいすい進む。飛ぶのはのは思った以上に気持ちがいい。毎秒近づく青空の眩しさに下を向けば、こちらを見上げるご子息と茂る芝生の緑がこれまた鮮やかに目に映った。
「こんにちは」
声が聞こえた気がして頭上を見上げると、はるか上空に巨大な旅客機がひとつ。
「素敵なボディ!今日はどこまで?」
声の正体は彼女らしかった。俺は彼女のエンジン音に負けないように声を張り上げる。
「分からない。行ける所まで」
「そうなの。私は海を越えたもうちょっと先まで。また会えるといいね!」
会話はそれきりだった。ぐっと彼女の機体が上昇して軌道を変えたと思ったら、あっという間に見えなくなった。同時に俺の身体を支えていた風が止む。彼女のようにエンジンを持たない俺は緩やかに大地へと落ちていく。
「やった。すごい飛んだ」
芝生に降り立った俺をご子息が喜んで抱えあげる。俺も一緒に嬉しい気持ちになるけれども、頭の半分くらいでは今さっきの出会いのことを考えていた。また会えるといい。願わくばもっと長く、もっと彼女に近いところで話ができたら。あるかもしれないそのときのため、また離陸準備に入ったご子息とともに二度目のフライトの態勢を整えた。
(風に身をまかせ)
バイトからの帰り道に気になる路地を見つけた。証券会社のビルと銀行の間にあった道で、それらの建物のことはぼんやりと認識していたのに、すき間の道だけは今の今まで目に入っていなかったらしい。いつも通る道のはずなんだけども。子どもの頃からこういうのを見つけると気になって仕方なくなるたちなので、チャリに跨ったままそこに入ってみた。
路地はごく普通のせまい路地だった。黒ずんだビルの外壁が両側にそびえていて、上の方で換気扇が回る音がする。道の端にはぐちゃぐちゃのレジ袋やコーヒーの缶が転がっていて、俺はそれを避けながら慎重にペダルを漕いだ。
建物三個分くらい進んだかなってところで路地は急に終わった。終わったと言っても、ひらけた道に出たとか行き止まりに当たったとかってわけじゃない。路地の先には3メートルくらいの灰色のコンクリートの壁が立っていて、そこに自動ドアが一つだけついている。建物かな、と自動ドアの方に寄ると、なんの抵抗もなく扉が空いた。オートロックじゃないのか。ちょっとびっくりしつつ、自転車を停めて自動ドアをくぐって、さらに驚いた。建物かと思っていたコンクリートの壁の向こうには、入ってきたのと同じような路地が続いていた。
なんだこれ、自動ドアは一体なんの意味があるんだろう。
変な路地を見つけたってだけなんだが、不思議な空間に迷い込んだ気分で俺はもうわくわくしてしまって、先に進む以外に考えられなかった。自分のちょっとだけ冷静な部分が「まさか私有地とかじゃないよな」と囁いたので、周辺にそういった文言が無いのだけ確認して、俺は意気揚揚と足を踏み出した。チャリも置いていくことにした。そんなに長い間冒険する気はなかったから。
路地は常に同じ景色というわけではなく、入り口と似たようなビルに挟まれていたり、マンションっぽい窓の沢山ある建物の間を通っていたり、あるいはあきらかに一軒家どうしの狭間にあったりした。風景に変わったところはない。おかしな点はやけに長いのと、一定区間進んだところで最初に入ったのと同じような自動ドアをくぐらされるところだった。
流石に飽きてきたな、と思ったところでまた扉が現れた。そろそろ路地の終わりだろうか。自動ドアの前に立つと、ドアの向こうの景色は今までのとちょっと違っていた。
地下道みたいな下りの階段が続いている。電灯が点いていて明るいけれど、相当に長い階段なのか先の方がどうなっているのかはよく見えない。覗き込もうと自動ドアから半歩踏み出した足音がよく響いた。下の方からカビっぽい匂いのぬるい風が吹いてきて、俺の頬を撫でてそのまま空気に溶けた。
そこで急に冷静になった。路地を見つけた時の好奇心は完全に萎んでしまっていて、今何時かな、なんて帰りのことが気になり出す。早く帰らないと、行きつけのスーパーの惣菜が売り切れてしまう。今自分はどの辺にいるんだろうと地図アプリを開いて絶望する。圏外表示だ。
ここはどこだ。変な空間に迷い込んだなんて有り得ない妄想が急に現実味を帯びてくる。がくがくと震える足をどうにか踏ん張って、来た道を引き返し始めた。一本道なので間違うことは無いはず。大丈夫。自動ドアが内から開くかどうか確認しなかったことを後悔した。
幸いにも扉は全部問題なく開いたし、来た道は寸分たがわず引き返すことが出来た。いちばん最初の自動ドアでチャリを回収して路地を出ると、まちがいなく見知った通勤路に出る。ほっとして思わずチャリに寄りかかった。
家に帰って無事に手に入れた惣菜を食べつつ、今日の出来事を振り返る。特に怖いことは起こらなかったのに、最後は急に怖くなってしまった。思い返せば、俺は昔からそういうところがある。探検といって近所の竹林に入ってみたりして、途中まではやる気いっぱいなのに、ある程度進むと不安になった。迷子になったらどうしようとか、動物が出てきたらどうしようだとか。つまんねー人間だな、と自分で思うけれど、生まれつきの性質なんだろうから仕方ないし、身を守るすべとしては恐怖も重要なんだろう。
あれからもずっと同じバイト先に通っている。路地は相変わらずそこにある。たまに入ってみようかって思うけれども、いまだに再挑戦はできずにいる。
(子供のままで)
「世界の終わりってどんな感じだと思う?」
「まず何らかの原因で地球が滅びそうになるじゃん」
「既に曖昧」
「地球を脱出しようにも資源は有限だし、太陽系なんていずれ滅んじゃうわけだから宇宙空間に逃げるのも得策じゃないでしょ」
「確かに〜」
「私だったら宇宙なんかに逃げずに過去に戻って地球人として暮らすわ。今から100年後にはタイムマシンが出来てる算段だし」
「ドラえもんの世界線」
「んで、絶対そう考えるやつが沢山いるわけ。しかも生活水準が変わりすぎると不便だから、多分結構近い過去にタイムスリップするじゃん。そんで遡行する時代が被って人口爆発で人類滅亡」
「未来人めっちゃ馬鹿じゃん……」
でもありそ〜、だとか女子高生か会話しているのを小耳に挟みつつ、俺は食べ終えたビッグマックのゴミを捨てて店を出た。
(明日世界が終わるなら)
恋に落ちる瞬間というのは人によって違うんだろうが、俺の場合はすごく分かりやすくて、夢に出てきた人の事を好きになる。これは昔から変えたくても変えられない悪い癖で、夢の中でその人に微笑まれた途端、相手の性格とか立場とか関係とかそういうものを全部すっ飛ばして骨抜きにされてしまうのだ。夢に出てくるのは近しい人のこともあれば全く話したこともない顔見知りの時もある。今回は後者だった。
大学の隣の研究室の青井さん。同じ歴史学コースなので授業が被ることもあるが、大教室での座学なんか話す機会はほとんど無い。俺は西洋史、あちらは日本史専攻と分野が違うのも手伝って、お互い名前と存在を何となく認識している程度の関係性だ。
そんな青井さんがどういう訳か昨晩、俺の夢に現れた。夢の中は晴れ空で、俺は先を歩く女性について歩いていた。細い通路の両側に背の高いひまわりが咲いている。先はひまわりに阻まれてよく見えない。迷路だろうか。ぼうっと気を取られていたら、足がもつれて転んでしまった。「大丈夫?」女性が振り返って、土に汚れた俺の手を引く。ここで初めて前を歩いていた彼女の顔を見た。同級生の青井さんが、見たことの無いくしゃっとした笑顔で笑っていた。
そんなベタなデートの夢一本で、たちまち俺は青井さんを忘れられなくなってしまった。我ながら純すぎる。現在手元にある彼女との接点は木曜4時間目の歴史学概論Ⅰただひとつである。何とか仲良くなれるだろうか。今更、どうやって?ろくに話したこともないのに?
恋愛経験は少ない方だし、打ち解ける方法なんて思いつくはずもない。ちょっと泣きそうになりながら、でも諦めきれずに木曜は青井さんの斜め後ろに座った。フレームの細いメガネの横顔が見える。あんまりじろじろ見たらきもいよな、と思うのに、明るいブラウンのボブを耳にかける仕草ひとつに心臓が縮こまって目が離せなくなる。俺を引っ張ったあの白い手だ。知らずのうちに汗ばんだ手のひらをぎゅっと握りしめる。はじめましての出逢いすらあいまいな関係をどうにか一歩ぶん進めたくて、カラカラに渇いた口を開いた。
(君と出逢って)