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 恋に落ちる瞬間というのは人によって違うんだろうが、俺の場合はすごく分かりやすくて、夢に出てきた人の事を好きになる。これは昔から変えたくても変えられない悪い癖で、夢の中でその人に微笑まれた途端、相手の性格とか立場とか関係とかそういうものを全部すっ飛ばして骨抜きにされてしまうのだ。夢に出てくるのは近しい人のこともあれば全く話したこともない顔見知りの時もある。今回は後者だった。
 大学の隣の研究室の青井さん。同じ歴史学コースなので授業が被ることもあるが、大教室での座学なんか話す機会はほとんど無い。俺は西洋史、あちらは日本史専攻と分野が違うのも手伝って、お互い名前と存在を何となく認識している程度の関係性だ。
 そんな青井さんがどういう訳か昨晩、俺の夢に現れた。夢の中は晴れ空で、俺は先を歩く女性について歩いていた。細い通路の両側に背の高いひまわりが咲いている。先はひまわりに阻まれてよく見えない。迷路だろうか。ぼうっと気を取られていたら、足がもつれて転んでしまった。「大丈夫?」女性が振り返って、土に汚れた俺の手を引く。ここで初めて前を歩いていた彼女の顔を見た。同級生の青井さんが、見たことの無いくしゃっとした笑顔で笑っていた。
 そんなベタなデートの夢一本で、たちまち俺は青井さんを忘れられなくなってしまった。我ながら純すぎる。現在手元にある彼女との接点は木曜4時間目の歴史学概論Ⅰただひとつである。何とか仲良くなれるだろうか。今更、どうやって?ろくに話したこともないのに?
 恋愛経験は少ない方だし、打ち解ける方法なんて思いつくはずもない。ちょっと泣きそうになりながら、でも諦めきれずに木曜は青井さんの斜め後ろに座った。フレームの細いメガネの横顔が見える。あんまりじろじろ見たらきもいよな、と思うのに、明るいブラウンのボブを耳にかける仕草ひとつに心臓が縮こまって目が離せなくなる。俺を引っ張ったあの白い手だ。知らずのうちに汗ばんだ手のひらをぎゅっと握りしめる。はじめましての出逢いすらあいまいな関係をどうにか一歩ぶん進めたくて、カラカラに渇いた口を開いた。

(君と出逢って)


5/5/2024, 1:49:14 PM