好きな本
堀口大學訳『ランボー詩集』
「もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。
僕の永遠の魂よ、
希願は守りつづけよ
空しい夜と烈火の昼が
たとい辛くも。
人間的な願望から、
人並みのあこがれから、
魂よ、つまりお前は脱却し、
そして自由に飛ぶという……。
絶対に希望はないぞ、
希いの筋もゆるされぬ。
学問と我慢がやっと許してもらえるだけで……。
刑罰だけが確実で。
明日はもうない、
熱き血潮のやわ肌よ、
そなたの熱は
それは義務。
もう一度探し出したぞ!
──何を?──永遠を。
それは、太陽と番った
海だ。」
地獄の一季 うわごと(その二)
飛行機で雲の上まで行って、何時の何処の空か分からない場所で時間を遡ったりウチとソトの境界の認識を曖昧にしている間、なにものにも囚われない自由が空にはある気がしていたね。
だけど大人になって領空というものを知り…、
子供心ではあいまいだと思っていた世界にも、大人には解る答や理があることを知った。
私が知らないだけで、世界の真理は実はわりとはっきりとしているのかもしれなくて、長く長く生きていくうちにその正体は更に明確化されていくのかもしれない。
私が知らないうちにぜーんぶ決まってた。なんて不自由なの。
なんて思うこともあるけども。
何も知らなかった頃の自由にはもう戻れなくとも、あの頃感じたあの『あいまいな空』への憧れは、その瞬間の歓喜や焦がれるような感覚だけは、ずうっと鮮明に覚えているね。
小さい花が寄り集まって、てまり状になっているものってかわいい
あじさい、沈丁花、コデマリ、八重桜の紅手毬…
ところで紫陽花の葉っぱって、網状脈のお手本みたいだなあと子供の頃に思ってた
「やらなければならないこと」をやって誰かに感謝されたとき、「私も生きていたらしい」と感じる。
「やりたいこと」を誰のためでもなくただやって、それが偶然誰かの役に立ち感謝されたとき、「ああ生きててよかった」と感じる。
だいたいは前者である。社会の中で生きるって、よっぽど「やらなければならないこと=やりたいこと」な人でなければ、毎日毎日「やらなければならないこと」ばっかやってそれなりに社会貢献して生きてくんだと思う。
ただ自分が好きなだけの物事を、他の誰かに肯定されると嬉しい。とんでもなく嬉しい。こんな嬉しいことが毎日あるとたぶん天まで昇って地上に降りてこられなくなる。それはわりと怖い。だからたまにでいい。
そんな「たまに」のよろこびのために、私は普段使いどころのない「やりたいこと」でもいつも大事に抱えて生きている。
朝日を温もりだと感じたことがない。白日が恐ろしいからだと思う。朝が来るとまず私も一人の人間として起立し、人間らしく清く正しく行動することを求められると、理解しているから。それが億劫でもあり、そんな当たり前の事すら出来ないと失望されることに怯えている。
朝日は私を責め立てる。けれど同時に、その東雲色の空の美しさに見惚れて、目が離せなくなる。朝は私の憧れでもある。
ハイキューに旭さんって人がいる。その人の生き方や、葛藤や劣等感や罪悪感を抱え、それを乗り越えようと藻掻き、凛々しく戦う様が、美しく気高いと思い。旭という名前が単純に良い名前だな〜と思っていたのもあって、子供には旭と名付けた。世界を、皆を明るく照らすような、そんな人になってほしいと願いを込めて。
朝日は好きだ。朝日は恐ろしい。それは厳しくも優しいからだ。
朝日は私の、かみさまみたいなものなのだ。