「私たちの気持ちなんて、きっとこの世の誰にも分かりはしないのね」
柳眉を顰め、お姉様はそう仰いました。
白魚のような指先がカツカツと机の端をせわしなく叩くのを、私はただ、ジッと見つめておりました。
先生方が揃って眉を顰めるそのクセも、私にとっては腹を空かせた仔猫がねうねうと不満げに鳴いているようで、酷く愛らしいものでありました。
「何が誉れ高き女学院よ。こんな場所、ただの纏足少女の出荷工場だワ。手の届かぬ華と育てたいのか学問に秀でた才女を育てたいのか、てんで理解していないセンセイ達にはほとほと呆れてしまうわね」
あァ、厭だ厭だ。と渋面を作る頬はなんの穢れも寄せ付けぬような清廉さでありました。
世の中の汚れといったものを厭う在り方は、いっそ幼さすら滲む清らかさでありました。
ただ、私はお姉様の美しさに憧れてはおりましたが、その輝かしき心を持つことは出来ない小心者でもありましたから、ただ困ったやうにお姉様へと笑いかけました。
「お姉様ったら、またそんなことを仰って。先生方にお叱りを受けてしまいますわ。家庭婦人の心得なぞ、もう書き飽きたでしょうに」
「あら、貴女も知っているでしょう?私、文字を読むのも好きだけれど、書くのはもっと好きよ。罰則の書き取り程度、いくらでもこなしてみせるわ」
「あぁ、そうでした。お姉様は罰則を楽しんでらっしゃると下級生のあいだでも有名でしたわね」
随分と厭な風聞が広まっているのね。と嫌な顔をするお姉様は、しかして、ふむ。と唇へ指先を当てて何事かを考え込まれました。
「そうね、罰則の書き取りも家庭婦人の心得ばかりで芸がないし、せっかくだから次の罰則の時には漢詩の書き取りでいいかセンセイに聞いてみようかしら?」
そんな真剣な面持ちでおかしなことを仰るものだから、私はくすくすと笑いました。
「お姉様は本当に学問がお好きなのですね」
「ふふ。えぇ、絶対に首席で卒業してみせるわ。卒業面など、言いたい者に言わせておけば良いのよ」
卒業面、という言葉に胸の中が翳り、私は手元の教科書の背を撫ぜました。
「そう、ですわね。今年も、幾名かのクラスメイトが学校を去りました。お姉様は四年生でいらっしゃいますから、御学友の皆様が次々に学校を去っていかれるのは、寂しいことでしょう」
「…そうね。共に学問を修めようと笑いあった学友が、卒業も待たぬままに、金魚すくいのように攫われていく。まったく、厭な話だわ」
「でも、結婚は良いものと聞きますわよ?」
ハテ、と首を傾げて見せれば彼女はまた形の良い眉を釣り上げます。
「まぁ、貴女ってほんとうに世間知らずね!いいこと?結婚したら籠の鳥よ!小説も書けず工作も出来ず、夫の親戚や近所のご婦人方とお茶を飲んでお喋りをするだけの日々!そんな生活、私にはとても耐えられないわ!」
プイ、と窓の向こう、斜陽をツンと睨むお姉様の横顔は、遥か霊峰の頂上に咲く花のやうに気高く可憐でありながら、どうにも心細く頼りなさげな風貌でありました。
どのやうなお声掛けをすれば良いか悩んだ末に、私は教科書に挟んだ便箋をそっとお姉様へ差し出しました。
「でも、お姉様。きっと文通くらいは許されますわ。お姉様なら、日々を連ねた手紙の中に小説を忍ばせるくらい、お出来になりますわよ。だから、えぇ、きっと。私たち、卒業したって変わらずお友達のままですわ」
お姉様は、ぱちりと瞬くと、少しだけ俯いたあとに顔を上げ「…そうね。きっと、そうよね」と仰いました。
『たったひとつの希望』
その溜息ごと口づけで奪えたならば
ああ、知っている。
私はその感情をなんと呼ぶか知っている。
彼女は、恋をしたのだ。
頬を染め、瞳を潤ませて悩ましげに溜息をつく夢見がちな横顔は誰よりも美しく可憐だ。
許せないほどに愛おしい。憎らしいまでに愛らしい。
細い指先を捕まえて縫い付けてしまえたならどれほど胸がすくだろう。さらさらと流れる髪を乱雑に乱してやれたのならどれほど胸が踊るだろう。
やわい身体を押さえつけ、逃げられないように囲い込み、戸惑う唇を奪えたならばどれだけ、どれだけ、幸せなんだろうか。
夢想するだけだ。実行する度胸なんてない。
なにより、積み上げてきた信頼と信用の上に成り立つこの立場を投げ捨てられるほど捨て身にもなれない。
愛しているからこそ、けして触れることが出来ない。
そうして私は今日も、良き友人の一人として彼女に微笑む。
『欲望』
何もかも嫌になった。なので逃げることにした。
机に積まれた大量の書類に『A君』『Bさん』『Cさん』『D君』と担当できそうな人の名前を書いたメモを貼り付ける。明日の予定も、まぁ、なんとかなるだろう。
そうしてスーツを脱ぐとパスポートとサイフだけを持って逃げ出した。
「なぁ新人。お前んとこの国の王様、まだ見つかってないんだっけ?」
「あぁ、そうみたいですねぇ」
「大変だったらしいなぁ」
「まぁ、国で一番えらい人ですからねぇ」
「けど、1ヶ月も経てば普通に国が回り出すって言うんだから、国の王様っていったって所詮は俺たちとおんなじ代わりのいる人間なんだなぁって、なんだか虚しくなったわ」
「それはそれは。他人事ではありますが。大変だったのでしょうねぇ」
『現実逃避』
東京に転校するって聞かされた時、やったー!より、どうしようって思ったの、今でも覚えてる。
あれだけこんなクソ田舎から抜け出して〜!って愚痴ってたのに、本当にそうなるってなったら考えるのは新しい学校のことでも急に知らされた父さんの再婚のことでもなくて、いま部活辞めたら人数的にヤバいんじゃないかとか、先輩に借りた5000円返してないとか、帰り道に君が独りになるじゃんとか、そんなことだった。
テストの点がどうとか顧問がウザイとか言い合いながら小石を蹴って。早く上京したいわ。なんて言ってたのにさ。ほんとうにそうなるってなったら、なんか急に今までつまんなかった全部が尊い何かに思えてきて、人間ってめっちゃゲンキンなんだなって他人事みたいに呆れた。
ほんとはさ、毎日毎日つまんないことばっかだって愚痴りながら歩く夕暮れも、そこまで嫌いじゃなかったんだ。
随分と馴染んだ帰り道。あれだけ似合わね〜とか思ってた制服も着崩せるくらいには慣れたし、学校帰りにコンビニ寄って買い食いするのもドキドキしなくなった。父さんの再婚相手さんのことはまだお母さんって呼べてないけど、多分、これもしばらくしたら呼べるようになってんだろうな。
あれだけ憧れてた東京は案外フツーだった。
都会は星が見えないとか言うけどそんなでもないし。
ここは田舎だから星が綺麗なんだぞとかセンセー達言ってたけどそんな変わんなかったもんな。アレぜってー田舎勤務の負け惜しみだろ。都会の空もフツーに綺麗じゃんって思ったもん。
そんでさ、星見てたらちょっと思ったんだわ。
この星って、君も見てたりしてんのかなって。
『君は今。』