月が満ちて満月になるのは人が生まれるということ
死を知らない私というとある名も無い女がいる。
最近は飼っている動物の死すら、といったぐらいだ。
そう、まだ一度も人の死を自分の目で見たことがなく
送るときの線香も焚いたことがない
参列に加わり骨を拾い、見送ることもできてない
今年に入ってから北極狼、白海豚、他多数の命の終わりを間接的に知った。勿論見てはいない
その私のもとについに、動物の死が来た
他ならぬ最愛の、まだ二歳にもなっていない鸚哥だ
最高の両親と弟のもとに生まれてきた娘である私の
ある意味娘みたいな鸚哥が
昨日クリスマスプレゼント用に買ってきたぐらいだったのに急に死んだ。
つい二日前に他の鸚哥にちょっかいをだしてはしゃいでいた上に煙草酒博打をしない、テフロンすらも使わないししない我が家なのに…と
あと、二ヶ月ぐらいは少なくとも生きた、いや生きられるはずだった
鸚哥が眠る子に
【次はね、いいこだから✘✘✘、鸚哥じゃなくてよい、✘✘✘にとってはお祖父ちゃんお祖母ちゃんそひて伯父さんになるのか?でもそれぐらいよい人間の娘に生まれるんだよ。鸚哥としてはもういいからお母さんは】
そして
【籠に飼われる鳥は、やめなさい。六道輪廻。この国はそういう国らしいんだ。下手な人間であっても、お前は『人間じゃない!人殺し!』…って私は人の死を見たことがないのに…言われる】
そう、道は歩けは轍になるのに
それを忘れてしまった、たった少しの間違いも許さない
【機械】が支配する國に
だから
【畜生道から修羅道、そして人間へなんだ。餓鬼にはならない。餓鬼は泣く子は餅をもらえるとと特をして、奪う鬼だ。だからね】と
あともう一つ。自分自身で取った栄光をすべて返した
祈りが通るかは全くわからない
でも、賞は、過去のものだけど今のお金に換算すると安いかもしれないけど稼いだから、神様に祈った
神道の
昔の話 郵便船からの昔の手紙を持っていた
私の 終に至った 最後の話
まだ私は死【四】を知らない
私はまだ一度も人の死を見たことがない。生きている時間は決して幼子でもなく、若人でもないのだが
しかし運命なのか、そういう星の下にいたのかはわからない。たった一度も、そして怪我人が運ばれる現場、さらに人身事故にも[一度も]遭ったことがない
親族の葬式も時がなのか魔がというのかは不明なことに他の家族の補助もあり自分だけ家番をすることになったという
学生の頃から死というものはというのについて学び、西洋東洋の宗教、臨床心理学、そして行き着く先として死の世界所謂地獄、黄泉の国、見るなのタブー、六道輪廻、最後の審判などについて考えた。そしてもう一つ。死の前に何を見るか、そして[水とは別に何を食べたいか]という事である
水は霊が依る。水があって人は生きる。死んでも未練があるのであれば水を求める。
では、人は。最後に何を食べたいを切望するのであろうか?本心から求める食べ物は何なのだろうか
でも、私は死を見たことがないから結局のところ【私が終わる時】にわかるのだろうか
それが生涯の研究テーマなのかとふと、夜明けとともに思った
喪失感
心に隙間風が吹いた気がするのは何故だろうか
喪う 失う それは人が生きているから来る
必ず起こり得る終わり
人の心は硝子の器に入った水のようだから
だから失う怖さ 喪う嘆き 一雫の雨
例えそれがどんな些細な出来事
何気ないことであったとしても
喪失感があるから人は人であるということを
忘れないのであれば、それは鏡に映る自分の姿を
そして心を認識できるのではないだろうか
嘆きも痛みも苦しもないのであれば
【映らないでもがく自分を】喪失するのだから
世界に一つだけ
己の存在というのがまず、世界に一つだけということを意外と人はわからない
それ故に己が
たった一つの宝石にもなり
たった一つの剣にもなり
たった一つの書にもなり
という
それぞれが己という最高に一つだけの
ただ、それ故に
他の誰かを必要以上に傷をつけてはいけない
『世界に一つのものを持つ 己』を喪うのだから
突然の別れ
永遠に続くというのは誰しもが描くものだと
日々を送る中でふと思うことがある
毎日の挨拶 仕事 食事 休息
簡単なルーチンと言えるものも
そういうものとは別に生き甲斐にしているもの
毎日想う人(架空のでも) 恋 愛する物
そういうものも
やはりずっと続くと気づかずに思うのでは
いや、忘れないようで忘れてしまうのではないかなと
過る
そういうのは【死】のように
本当に突然の別れを告げるかのように来るのだから
だからこそ、痛い、辛い、悲しい記憶を忘れるのもとても重要だけど
その【別れ】の時がいつ来ても良いように
毎日全力で私は生きている
[帰還するために]