ざあざあ。
雨が降っている。
独り言を全て掻き消してしまうほどの、大きな水音が存在を主張している。
暗くてどんよりとした空の下。
人が立っているのを、呆然としながら眺めた。
その人の足元に転がっている、たくさんの穴が空いた傘。
その人が身に纏う、綺麗な黒色をした服。
髪から、服から、滴る水なんて気にしない。
雨風さえも、空気となんら変わらない、自分に害の無いもののように見えているのか。
目に雨が入っても、水が頬を伝っても、空を見上げ続けている。
「何をしているの?」
誰か分からないその人は、こちらを見ずに答える。
「待っているの。」
「誰を待っているの?」
「お天道様。」
「どうして?」
「傘が壊れちゃったから。お天道様が、会いに来てくれるのを待っているの。」
「自分から、会いには行かないの?」
そこまで問い掛けて、その人はゆっくりとこちらを向いた。
「だって、雨、止まないんだもの。手足が悴んで、歩けないから。」
あぁ、怠惰な人なんだな。
軽蔑的な視線に、その人は顔を顰めた。
だってそうじゃないか。
恵みを与えてくれる、大切な存在のはずなのに。
雨宿りも、家に帰りもしないくせに、都合の悪い時だけ雨のせいにして。
けれど。
そうする事で、楽に生きる事が出来るのは事実だ。
全部全部、知らないフリで。
「あなただって、同じでしょ。雷が落ちても面倒なんだから、大人しく待ってようよ。」
そうだ。
傘は壊れた。
服もびしょ濡れで、寒くて。
自分から何かを求めて動くのは、疲れてしまった。
「お天道様は、きっと来てくれる。」
そう、向こうから来てくれる。
雨が降っているのなら、仕方無い。
寒くて冷たいところで、静かに休んでいよう。
雨はしばらく降り続ける。
今も、絶対に降っている。
目で見えているものが、ずっと昔のフィルムの中の映像だったとしても。
___ 3 いつまでも降り止まない、雨
言葉で表現するには難しい「それ」を自覚してから、自分の世界が大きく変わった。
前触れなんてものは無かった。見えるものや感じ方、全てがその瞬間から変化したのだ。まるで、何かに取り憑かれたかのように。
しかし、それが誰かに幸福を齎したり、救いになったりはしていない。むしろ傷付き、傷付けて、人間の醜さとはこう言った所なのだと痛感する羽目になった。
だからと言って、それを恨んでばかりはいられない。過去の苦しみも今となっては良い思い出だ。なんとも前向きで、都合が良い考え方が出来るようになったものだ。
「私は気付きたくなんてなかった。」
夢の中の彼女は、いつも俯いている。陽の光が差し込まない真っ暗な部屋の中、埃をかぶった布団にくるまって、僕だけに心の内を話す。
布団を握る力が強くなっているのが分かった。それが彼女のどの感情を表しているのかは、きっと僕にしか分からない。
「あの時、あの考え方が出来て良かったと思うよ。」
「うそ。あれだけ悲しませたのに、良かったわけない。自分を殺すのだけはやめてよ。」
「布団にくるまって怯える事が、自分の意思?」
「うるさい。」
彼女は、先に進むのをひどく怖がっていた。自分がこれからどう変化するのかが分からなくて、怯えていた。自分の想いを殺して、大切な人を傷付ける事が二度と無いように。
僕は、盲目的な優しさを持つ彼女が安心して未来へ進める様に、夢の中を歩き回る。けれど、今宵も怯える彼女の姿を見て、もうそれも潮時かと感じた。彼女を追い詰めた所で「かわいそうなおんなのこ」から羽化する事は出来ないだろう。
だから、最後に一つだけ。
僕は彼女を―――かつての自分を、抱き締めた。
「大丈夫。不安な事は何も無い。自分が感じたままに、好きに生きていこうよ。他者に向けるその優しさを、自分に向けてやらないでどうするの?」
「他人なんかに愛されなくたっていい。認められなくてもいい。どんな外側でもどんな内側でも、全部大好きな〝自分自身〟なんだから。」
「自分の〝好き〟に向かう為の、綺麗な羽が生えただけ。蛹から蝶に羽化出来る。変化という名の好機を、逃す訳には行かないでしょう?」
自己犠牲的で、〝好き〟に素直になれない「私」。
身勝手で、〝好き〟を貫き通せる「僕」。
「僕」になるのが怖い「私」へ。
「誰より一番、愛してるよ。」
背中に伝わる温もり。
ほらね、言った通り。不安な事なんて無かったんだ。
どんな自分でも、愛せるのだから。
___ 2 あの頃の不安だった私へ
「ただいま。遅くなってごめんね。お腹空いたでしょ?」
行儀よく背筋まで伸ばして、彼女が帰って来るのを待っていた。彼女はそんな俺を見ると、愛おしそうに頬を撫でて微笑む。俺はそれに答えはせず、ただ今日も彼女を見詰めるだけ。彼女の慈愛に溢れた瞳と、優しい声色。それだけはずっと変わっていない。
「今日のご飯はカレーだよ。ふふ、大好きなお肉いーっぱい入れたの作ってあげる」
彼女は持っていたビニール袋の中身を俺に見せていた。中に入っているのは新鮮な食材だ。彼女は俺の顔を覗き込む。
「…これなら、今日は全部食べれそう?」
「……………。好きなだけ食べていいからね!元気つけて明日も頑張ろう!」
「それから、にんじんもちゃんと食べること!分かった?」
彼女は答えない俺に話し掛け続けている。
料理中も、俺は何も答えられないというのに、今日あったことやら何やら沢山の話題を振られた。相変わらず、賑やかで楽しい人だ。時間があっという間に感じる。
今頃、出来たてのカレーの匂いや他のにおいが混じって部屋の中に充満しているのか。換気でもしようものなら、きっとこのアパートには誰も寄り付かなくなるだろう。
真っ白な皿に白米とカレーを盛り付けて、彼女は自信たっぷりな様子で俺の前にそれを運んで来た。
「はい、あーん。」
出来たてのカレーライスが一口分、スプーンで掬われた。白い湯気が浮かんで消えていく。
べちゃり。
「…美味しい?えへへ、作った甲斐あったなぁ。おかわりもあるからね」
母さん。
はやく、夢から醒めてくれ。
望まない呪縛から、本当に逃げたいと思っているのは誰なのか。
母の幸せそうな表情を見ても、俺の空洞が埋まることは無かった。
___ 1 逃れられない呪縛