もんぷ

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9/17/2025, 11:21:28 AM

靴紐

 自分の靴紐さえ上手に結べないくせに、ママになるなんてよく言ったものね、と母に笑われた。その嘲笑には、いつもの意地悪と、口の悪さ以外に、どこか寂しさが詰まっているような気がして涙が溢れた。ほら、まだこんなに泣き虫じゃないと笑う母の瞳もどこか光っているように見えたのは私の視界が歪んでいたせいだろうか。

9/17/2025, 9:28:51 AM

答えは、まだ

 本当に贅沢な話だと思う。ひしひしと伝わってくるその好きという気持ちだけ貰っておいて、困らせたくないという最上級の愛で選択は迫られず、急かされないから焦らずに笑って、全てを許されて。こんなにも幸せにしてもらっているのに自分は何一つ返せず。それでも今のところ、答えは出せないなんてふざけているにも程があるだろう。いつか、この答えが出せない自分に呆れて、横にいた人がどこかへ行ってしまうその時までは、ずっと幸せでいさせてほしい。本当は答えなんて出てるのに、大好きなのに、ごめんね。いつまでも自分を想って、安心なんてせずにずっと欲しがっていて欲しいから。だから、ごめんね。答えは、まだ。

9/16/2025, 9:35:17 AM

センチメンタル・ジャーニー

 改札に入る前、都会は怖いところだから気をつけなさいと口を酸っぱくして母が言っていた時も、自分はかわいくないから大丈夫だよと笑って手を振っていた。都会の夜は夜でも明るくて、寂れたスナックしか光が灯っていない地元とは大違いだと理解した。すれ違う人皆がキラキラしていて、道路を通るトラックでさえ何かのアナウンスをして街を賑わせていた。片手には大きすぎるキャリーバッグ、もう片方にはマップアプリ。右も左も分からないから縮こまって歩く。何メートルあるか分からないビル群にイケメンやら綺麗な人やらの看板が大きく貼られている。信号待ちでぼーっとその看板を眺めているうちに思う。自分がかわいくないことは思春期に入ってからはよーく理解していたし、先輩が高校卒業する前にと勇気を出した一世一代の告白もあえなく散った。失恋と言うには少し呆気なさすぎるし、元々成功すると思っていた訳でもない。ただちょっと、ほんのちょっとその優しさに期待してしまっただけで。
「おねえさんかわいいね!ごはん行かない?!」
髪とテンションの明るい男の人がそう声をかけてくるのを苦笑いして通り過ぎる。おそらく母が東京は怖いところと言っていた理由の一端だ。額面通りかわいいを受け取れるほどおめでたい頭はしていない。信号が青になったと同時に少し歩くスピードを早めると、後ろから本当はかわいくねーしブスが調子乗んなといった旨の罵詈雑言が耳に残った。ほらやっぱり。私はその程度の"かわいい"しか受け取れない女なのだ。もはや涙も出ない。少しだけ重くなった足で安いビジネスホテルまでの道を急いだ。

9/15/2025, 9:35:09 AM

君と見上げる月…🌙

 すっかり日も落ちて暗さを増した歩道を歩く。仕事帰りの脳は開放感と共に怠さを示していて自然と足が重くなる。ただそれでも歩くことができているのは、自分よりも歩幅の小さい右の人に合わせてゆったりしたペースで進んでいるからであろう。
「あ、見て。月。」
「…ん。ほんとだ。」
普段空なんて見上げないから三日月なんて久々に見た。天候で空気が澄んでいるからかはっきりと見える。自分の方が空に目線は近いのに、全く気が付かなかった。さて、月が見えると言われたからといって何て言えば良いのだろうか。生憎月を見ても月だなーと思うくらいの感性しか持ち合わせていない。昔の人は月が綺麗だとかいうだけで告白できるとか言うけど普通になんでだろ。月が綺麗だからってなんだ。誰といたって月は綺麗なんじゃないか?というかそもそも月って綺麗か?なんて言えばこの小さいのによく喋る人にムードも何も無いと怒られてしまうだろう。
「…月が綺麗ですね。」
月が綺麗だとは思っていなくても、その奥に潜む想いは一緒だから。こんな疲れた時くらい素直になってもいいだろう。なんて思った俺が馬鹿だったのか。
「ね!めっちゃ綺麗ー!」
ただの世間話だと捉えた右隣の人はご機嫌そうに声を弾ませていた。こっちはこんな柄にもないクソ恥ずかしいことしたのにまさか伝わらないなんて。顔の赤さを隠しつつ、ただ月を見ながら一緒に歩くだけで満面の笑みを見せる横の人を見てまあいいかと思い直した。

9/14/2025, 1:56:04 PM

空白

 「久しぶり」と動くその厚めの唇からは当時と変わらない穏やかな声が響いていた。彼の第一印象としては、自分よりもいくらか身長の低いごく普通の男というものだった。高校とは打って変わって、大学生ともなればパートナーが社会人で、記念日にはホテルのディナーに連れて行ってもらうだとか、インカレで出会った有名大学の同年代と良い感じだとか、夜に知り合ったモデルの卵と付き合い始めただとか、そういうどこかギラギラした恋愛話ばかりが耳を埋め尽くすようになった。たまたま行動を共にするようになった人達がそういう一定の人達だったのかもしれないが、当時の自分にとってもそれを普通とするくらいには感覚が麻痺していた。馬鹿馬鹿しいことに、恋愛対象は経済力、学歴、容姿のどれかが秀でてなければ仲間内では嘲笑の対象であったのだ。その中でも特定の相手を作らないという行為は、あのグループの中では作れないという不可能と同義らしく、惚気話の端々では"誰かいないの?"とニヤニヤした顔で揶揄われるのが定石となっていた。進学を機に別れてしまった人のことを引きずっていた自分はそんな揶揄いに苦笑いを浮かべつつも何もできない日々を過ごしていた。耳触りの良い言葉を並べてくる人に流されても良いかもしれないとか、求めてくれている人のうちの誰かに応えて"良い人いないの?(笑)"の呪縛から解放されたいとか、弱気になってしまうこともあった。
 季節が進んだある日のこと、これから先一緒になるゼミのメンバーとして紹介されたうちの一人に彼がいた。よく話す一定の人達の輪の中にいる割には口数が少なく、だけどいつもその大きな口をキュッと結んで笑っているのが印象的だった。その人が大人しいのではなくて大人らしいのだと気づいたのは、なんとなくLINEを交わして休日を共にするようになってからだった。大学に入ってからは忘れていたような楽しいだけの時間が過ぎる度に、ずっとこれが続けば良いのにと強く願った。

好きです、付き合ってください

 もうすっかり敬語なんて無くなった自分達の間に、耳を真っ赤にした彼が一言。いつもの低い落ち着いた声は少し震えていた。彼の見上げる視線の先には自分がいて、彼の不安そうに眉を寄せて口をへの字に結んでいる姿が自分だけに向けられていると思うとすごく愛おしかった。ただ、怖かった。失う恐怖と、付き合ったと公言した際の生暖かい視線が。相手がいなくて笑われるのは自分が傷つくだけで済むのに、正式に認めてしまうとなぜか皆の品定めが入るのだ。経済力も学歴も容姿もどうだっていいと思えるようになっても、誰かに彼を否定されることがすごく嫌だった。だから、最悪な選択をしたのだ。

 記憶の中の彼の明るめの茶色は黒と随分落ち着いていて、自分も彼も自由に髪さえ染めれない年齢になったのだと理解する。自分もあの頃より髪色は落ち着き、メイクも控えめになり、露出度も下げたシンプルな装いになった。今でさえ彼は自分が大好きな笑顔のまま微笑んでくれたけど、今の地味な姿を見て幻滅されていないかだけが心配だ。彼と言葉を交わすのは何よりも嬉しいのに、彼と会っていなかった空白の時間を話すのは辛かった。どう足掻いても時間は進むのに、自分の心はずっと空白のままだったから。対して、彼がぽつりぽつりと話すその空白の時間は、仕事やら趣味やらと空白とは言えないほど充実していて、あぁ頑張ってるんだなと知れて安堵した。どこかで、健康で幸せでいてくれたらそれでいいなんて願っては、なんか寂しくなってしまった時にはあの大きな口から聞こえる好きですを何度も再放送しては、やるせない日常の涙を凌いできた。救われている、なんて仰々しく言うとそんなたいしたもんじゃないと照れたように笑うから、その弧を描く口がまた嬉しくて。彼と話すだけでこんなにも幸せになれるなら、彼の笑顔を崩してしまったあの日からの空白になった日々も少しだけ色づいた気がした。そんな自分勝手なことを思っている時に、ふと彼が話す。
「本当俺の口好きだよね」
呆れたようにその大きな唇をアヒルのようにキュッと結んだのを見てから、おずおずと顔をあげる。久々に合った、その真っ直ぐな瞳。
「…バレてた?」
「当たり前じゃん。目合うことより口見てるんだろうなって思うことの方が多いもん。」
「ごめんなさい。」
「別にいいけどさー。なにがそんないいの?」
彼自身の口元に手を当てては、ふにっとその唇を触るからもうたまらない。形も、厚さも、大きさも、そこから産み落とされる低い声も、優しい言葉も、全てが好きなのだ。いつかのようにその口が自分のことを求めてくれたらいいのに…なんて。柔らかなその指の動きを追っているうちに彼はぼそっと言葉を落とした。
「…告白した時はちゃんと目見てくれたのに。」
「……ごめん。」
痛いところを突かれて、申し訳なさから目も口も見れずに俯いて黙り込んだ。やっとの思いで自分の口から出た謝罪は思いの外弱々しくて空気を重くする。自分自身、あの時のことを何度も責め立てていたが、現在の彼に言われるとなると辛さが段違いだ。
「やっと目が合ったと思ったらフラれるし。」
「……ごめんなさい。」
「いいよ。」
彼のいいよからまた空白の時間が流れる。その数秒の沈黙に頭を働かせる。いいよってどういう意味。もうだいぶ昔のことだからいいよ?今は他に良い人がいるからいいよ?逆に言ったの後悔してるぐらい、付き合わなくて良かったわのいいよ?本当はまだ怒ってるけど場の空気を壊さないためのいいよ?それとも、ただ優しいだけのいいよ?ぐるぐると思考を巡らせている間に、空白が無くなって落ち着いた彼の言葉が響いた。
「いいよ…次は頷いてくれるなら。」
勢いよく顔をあげた自分と、少し下から見上げる彼の視線がぶつかる。その少し潤んだ目から視線を外すことができない。数年ぶりのその敬語の文言に、頭が取れんばかりの勢いで大きく頷いた。

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