夏草
綺麗やなぁ。ベランダに飾られた水色の花のプランターを見つけて思わず頬が緩んだ。そういえば家にお邪魔するのは何度もあったけど、ベランダに足を踏み入れたのは初めてだったかもしれない。倒さないように気をつけながら二人分の洗濯物を干す。部屋にも至る所に観葉植物が置いてあったりして緑が多いなと思っていたけどこんな綺麗な花を育てていたのは知らなかった。いつも自分よりも早く起きて、ベッドを抜け出してはこっそり水をやっていたりしたのかなと想像する。そう考えたら一人分のスペースが空いていた時の寂しさも納得してあげたくなる。度々生えてくるであろう雑草も丁寧に手入れされて立派な花が咲いているそれをじっと見る。小学校の頃学校で育てていた朝顔をすぐに枯らせてしまってからは敬遠していた植物。帰ってきたら何の花か聞こう。
素足のままで
黒のシンプルなハイヒール。形が綺麗なそれはお気に入りのブランド物。埃ひとつないシューズケースからどのヒールにしようか迷うのは毎朝の楽しみだ。今着ているミニ丈のワンピースとブランドが同じだし今日はこれにしよう。コツコツとアスファルトを鳴らすヒールの音が好きだ。いつだっけ、まだ小学校に通う前、パパの会社の集まりに連れて行かれた時、同い年ぐらいの男子に言われたチビの二文字。バレエを習っていたから長い手足に憧れていた私は初めての侮辱にショックを受けて固まってしまった。すぐにその子の親らしい人が血の気が引いたように謝ってきたから大丈夫ですと笑いかけることができたが、その呪縛が消えることはなく、いつしかヒールの高い靴を好んで履くようになった。
靴を脱ぐのは嫌いだ。ありのままの自分の身長を曝け出すのが怖い。普段見下ろすようにして威圧感を与えていた男たちの前で、弱い自分を見せる訳にはいかない。それに、とても惨めに思えるから。ヒールを履くことで大人の女性になったと思っていたのに、靴が脱げると途端に魔法は消える。シンデレラだってわざわざガラスの靴を履いていない姿を探されたくなかったと思う。私はシンデレラになんかなってやらない。綺麗な靴を履いて、着飾って、王子様なんて探さずに一人で女王様になってやる。そう意気込んで今日も姿勢を伸ばして街を歩いた。
もう一歩だけ、
18の春。大学に入って初めての授業日。降りる駅を間違えないか緊張しながら電車内のモニターを気にしていた時のこと。向かい側の席で姿勢よく座る女性に度肝を抜かれた。上品な金に染められた髪に、光沢のある黒のシャツに細身のスキニーパンツ。高いヒールの靴を履いた足は綺麗に揃えられていて、座っていたって分かるようなスタイルの良さ。恐ろしく綺麗な人だとしばらく目を奪われていたら不意に顔が上がって目が合う。思わず逸らすと、自分の下半身が目に入る。太いふくらはぎを隠すために買ったセール品の色褪せたロングスカートと履き潰したスニーカー。朝は何も思わなかったのにすごく見窄らしく思えてきてそのくたくたのスカートをきゅっと掴んでいた。都会には綺麗な人がいるなと思っていたけど、まさか同じ駅で降りて大学まで辿り着くと思わなかった。
19の春。学年が上がって最初の授業日。看護実習のためかみんなの髪色はほとんど暗い黒で統一されていた。一年を通して組まれる演習のペアの紙が張り出されていたのをぼーっと見ていた時だった。ねぇねぇと優しく声をかけられ、振り返るとそこには黒髪だったとしても美しさが変わらない紛れもない美人。この一年、目立つその子を見かけて目で追っていても、きっかけもなしに話しかけることができなかった。言葉を交わせる距離にいるのが嘘みたいだと固まる私に、その綺麗な子は、ペアだからこれからよろしくねと目を弧に描いた。
20の春。春休みの実習にへとへとになりながらも間髪入れずに始まった授業日。相変わらず綺麗な彼女は髪を出会っていた頃のように明るくしていてどこか懐かしい。大きいホールでキョロキョロと辺りを見回しては私を見つけ、ブーツをコツコツと鳴らして同じテーブルのところまで来ていつものように一人分席を空けて座る。他愛もない話をしながら講義が始まるまでの時間を過ごした。
21の春。辛くて、辛くて、学校に行かなければならないのに、なぜだか涙が止まらずに家から一歩も出ることができなかった。夕方、やけにうるさいインターホンで目が覚める。のそのそと起き上がってモニターを見ると、今日だって綺麗な彼女の姿。ドアを開けると、なぜか彼女も目を潤ませて佇んでいた。何も声を出せない私の手を取って優しく包む。全てを許してくれている気がしてまた涙が止まらなくなった。玄関でしゃがみ込む私の涙が床とスニーカーを濡らしていった。
22の春。お財布に優しいカウンター席の居酒屋は彼女にはだいぶミスマッチだ。少し狭い店内で、一人分のカバンだけ間に挟んで座る店内で仕事はどうだとか上司がどうだとか溢しながら笑い合う。少しお酒も入って思考があやふやになった頃、思う。あぁ、本当に綺麗だ。グラスを傾ける指先から少し堅苦しい靴を履いた足先まで。つい見惚れていたら酔ってしまったと勘違いさせてしまったようで大丈夫かと顔を覗き込まれる。そして、いつもより近い距離で目が合う。あと一歩、踏み出したら触れる。もう一歩だけ、踏み出したら私たちの関係は変わる。今なら良いだろうか。許されるだろうか。間に置いてある私のカバンを手探りで掴み、膝の上に避け、踏み出す。その綺麗な目が大きく見開かれる。靴の先が当たった。
見知らぬ街
帰宅ラッシュの時間帯なのか、電車の中はそこそこに混んでいて、どこにももたれかかれずに吊り革につかまる。地元のだと大体座れないなんてことはないのにな、とため息を吐く。しかも自分の身長だと低くなってる吊り革の方が体重を預けやすくてありがたいんだけど、それは叶わずに微妙な高さにある吊り革に手を伸ばしていた。各駅に止まるから心配はないはずなのに、アナウンスは知らない駅ばかりで心がざわざわする。何度も乗り換えのアプリを開いてはこれであっているかと照らし合わせる。大きなキャリーケースを持っている人も多くてなんか都会だなあって他人事みたいに思いながら、自分のキャリーケースを掴む右手に力を入れた。高速で動いていく車窓には夜なのに灯りがたくさんともっていて綺麗…なんて思っていたら自分の降りる駅の名前が聞こえて急いで出る。なんだか人が多くて、人の歩くスピードも速くて、自分は全く場違いな感じ。前から歩いてくる人を避ける術が上手くいかず、舌打ちされては目の前を去っていかれたり。あぁ、怖い、やだ、帰りたいとネガティブな感情で頭が支配された時、改札を抜けたところに見えた愛しい人の顔。
「あっ、こっちこっちー。」
いつもと同じ彼の笑顔になんだかすごくホッとして歩みを速める。「迷わんかった?大丈夫?」と言いながらキャリーケースを持つのを変わってくれ、さらには空いた右手を繋いでくる一連の流れがあまりに綺麗でびっくりした。そうだ、この人はそういう人だったと頭で理解することはできても、感情はついていかず顔は赤くなるばかりで笑われてしまった。
「もうこれからは夫婦なんやからさー、いい加減慣れてや?」
とさらっと言われてしまい、また脳は混乱する。この期に及んでまだ自分で良いのかなんて問えば、ムッとした顔で当たり前だと返されるのは分かっている。ただ、まだこの状況が信じられないのだ。なんなら結婚詐欺って言われた方がまだ信じられる。周りの人に言うとマリッジブルーだとか何とかまともに取り合ってくれない。ただ、相手の写真を見せるとみんなの目の色が変わって本当に結婚詐欺ではないか心配されるぐらいには私と釣り合っていないのだ。整った顔立ちはどこかのハーフかのように思えるけど、一度聞いてみたら「純日本人やでー?」とコテコテの関西弁で笑われた。背も高いし、スタイルの悪い自分とは全くもってアンバランスだ。
「え、何?そんな見つめて恥ずかしいわあ。」と言いながら、私と違って赤くならない顔は、ただその綺麗さを強調しているだけだった。それでも私はこの人と、この見知らぬ街で生きていくことを決めたんだから、本当に人生って分からないな。そう思いながら右手を握る力を強めた。
遠雷
もう8時だと言うのに窓から見える暗い雲は朝を全く感じさせない。おまけに不定期でゴロゴロという不穏な音が聴こえては止むを繰り返していてなんだか落ち着かない。せっかくの休み、新たに駅前に出来たカフェのモーニングに出かけようかなんて話していたのに。朝からゆったりと二人の時間を満喫しようとしていたのに、この仕打ちは許せない。最大限に暗くした画面で天気を検索すると、どうやら警報まで出ていたらしい。諦めにも近いため息が溢れ、そっと、まだ夢の中にいるその子の髪を撫でた。起こしたくは無いから、その真っ直ぐな黒髪に触れる程度に留める。ふと窓の外が光り、数秒経ってから音が聴こえる。光ってから音が鳴るまで時間があったからどこか遠くの方に落ちたのだろうと結論づけ、無意味にいじっていた携帯をサイドテーブルに置く。すると、感覚を失っていた左腕の上の重みが動き、寝起きの掠れた声が聴こえてきた。
「かみなり…?」
「ん、おはよう。そう。まぁ、そんな近くないから…」
言い終わらないうちにまた目を閉じたかと思えば、体勢を変えて自分にしがみつくように眠り始めた。雷が怖いとか言うような年齢でも無いし、普段から怖いものなしの彼女だから無意識の行動なのだろうけど何故だかとても嬉しくなった。優しい寝息をたてる眠り姫を抱きしめて自分も目を閉じる。こんな時間をくれたのだから、仕方ないし雷は許してやろう。