もう一歩だけ、
18の春。大学に入って初めての授業日。降りる駅を間違えないか緊張しながら電車内のモニターを気にしていた時のこと。向かい側の席で姿勢よく座る女性に度肝を抜かれた。上品な金に染められた髪に、光沢のある黒のシャツに細身のスキニーパンツ。高いヒールの靴を履いた足は綺麗に揃えられていて、座っていたって分かるようなスタイルの良さ。恐ろしく綺麗な人だとしばらく目を奪われていたら不意に顔が上がって目が合う。思わず逸らすと、自分の下半身が目に入る。太いふくらはぎを隠すために買ったセール品の色褪せたロングスカート。朝は何も思わなかったのにすごく見窄らしく思えてきてそのくたくたのスカートをきゅっと掴んでいた。都会には綺麗な人がいるなと思っていたけど、まさか同じ駅で降りて大学まで辿り着くと思わなかった。
19の春。学年が上がって最初の授業日。看護実習のためかみんなの髪色はほとんど暗い黒で統一されていた。一年を通して組まれる演習のペアの紙が張り出されていたのをぼーっと見ていた時だった。ねぇねぇと優しく声をかけられ、振り返るとそこには黒髪だったとしても美しさが変わらない紛れもない美人。この一年、目立つその子を見かけて目で追っていても、きっかけもなしに話しかけることができなかった。言葉を交わせる距離にいるのが嘘みたいだと固まる私に、その綺麗な子は、ペアだからこれからよろしくねと目を弧に描いた。
20の春。春休みの実習にへとへとになりながらも間髪入れずに始まった授業日。相変わらず綺麗な彼女は髪を出会っていた頃のように明るくしていてどこか懐かしい。大きいホールでキョロキョロと辺りを見回しては私を見つけ、ブーツをコツコツと鳴らして同じテーブルのところまで来ていつものように一人分席を空けて座る。他愛もない話をしながら講義が始まるまでの時間を過ごした。
21の春。辛くて、辛くて、学校に行かなければならないのに、なぜだか涙が止まらずに家から一歩も出ることができなかった。夕方、やけにうるさいインターホンで目が覚める。のそのそと起き上がってモニターを見ると、今日だって綺麗な彼女の姿。ドアを開けると、なぜか彼女も目を潤ませて佇んでいた。何も声を出せない私の手を取って優しく包む。全てを許してくれている気がしてまた涙が止まらなくなった。玄関でしゃがみ込む私の涙が床とスニーカーを濡らしていった。
22の春。お財布に優しいカウンター席の居酒屋は彼女にはだいぶミスマッチだ。少し狭い店内で、一人分のカバンだけ間に挟んで座る店内で仕事はどうだとか上司がどうだとか溢しながら笑い合う。少しお酒も入って思考があやふやになった頃、思う。あぁ、本当に綺麗だ。グラスを傾ける指先から少し堅苦しい靴を履いた足先まで。つい見惚れていたら酔ってしまったと勘違いさせてしまったようで大丈夫かと顔を覗き込まれる。そして、いつもより近い距離で目が合う。あと一歩、踏み出したら触れる。もう一歩だけ、踏み出したら私たちの関係は変わる。今なら良いだろうか。許されるだろうか。間に置いてある私のカバンを手探りで掴み、膝の上に避け、踏み出す。その綺麗な目が大きく見開かれる。靴の先が当たった。
8/26/2025, 1:09:48 PM