もんぷ

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5/16/2025, 2:18:36 PM

手放す勇気

 生きるために、ある程度のことは犠牲にしてきた。世間一般のキラキラした青春や人並みの学校生活なんて微塵も味わうことができないまま卒業して夜を生きる生活を始めた。生きるために、お金を得るために、身一つでここまで駆け抜けてきた。手放す勇気は誰よりもあると自負していた。それなのに、このざまはどういうことか。ただ生活を共にするようになった人にこんなにも縋り、夜から抜け出した新しい仕事にこんなにも楽しさを感じている。もうこの生活は手放すことができない。どんなお金に換えてもだ。

5/15/2025, 10:16:59 AM

光輝け、暗闇で

 「一筋の、光輝け、暗闇で、間違う人が、増えないように」
クラスで誰とつるんでいるところも見たことのない物静かなあの子が書いた短歌が入選した。中学校にもなってなにかの啓発の短歌を書く授業なんて面白みがないと「いじめダメ」みたいな適当な31音を殴り書きして提出したあの日。部活に行こうと教室を飛び出そうとしたその時、通路側の一番後ろに座るその子が誰よりも遅く丁寧に文字を連ねていたのを見た。一瞬しか見えなかった、いつも長袖を好むその子の腕の跡は、腹減ったで埋まっていた自分の思考を停止させるくらいには衝撃的だった。特に何か言葉をかけるでもなく友人に背中を押されて部活に向かった日から3ヶ月ほど経っただろうか。その子は学校に来なくなった。心配する人も不審に思う人も誰もいなかった。自分も、楽しい日常の中でぬくぬくと暮らし、その子が間違っていないといいなと思考の端で考えるだけ。ああ、なんて無責任なんだろうと思った。どうしたらいいかはわからなかったが、最終的には馬鹿らしい一つのアイデアが浮かんだ。こんなに光に溢れた自分の生活から光を分けてあげたい。自分が光にならせてほしい。
 そこから、彼女の親友として結婚式で手紙を読むまで15年もかかった。結局自分が光になれたかはまだ聞けていない。

5/14/2025, 1:03:32 PM

酸素

 酸素を目一杯吸い込んで、あの花屋へ走る。手には前借りた黒い傘とちょっとしたお礼。こうやって向かうのは5回目。借りてからすぐの土曜日と日曜日、先週の水曜日、土曜日、日曜日。そして、今日は水曜日。白のカッターシャツと深緑のエプロンが似合うあの人に会いたくて、シフトに合わせて来ているのに全く会えなかった。今日こそはと願いながら角を曲がると屈んで葉っぱを拾っているその人の背中を見つけた。
「あ...いた...良かった......」
もう会えないかと思った。名字しか知らないその人は、そのバイトを辞めてしまったらその後を知りようが無いから。自分に気づくと、すぐに立ち上がってあの落ち着く声で話しかけてくれた。
「川崎さんこんにちは。大丈夫ですか。走られてきたんですか。」
そうだ。息が整っていないのがバレている。恥ずかしくて赤くなりそうなのを抑えながら酸素を取り込んで言葉を紡ぐ。
「あ、えと...あの、傘返したくて。先週の水曜も土曜も日曜も来たんですけどいらっしゃらなくて...店長さんには内緒って言われてたし渡しておけなくて...」
あずまさんは緊張で詰まり気味になっている自分の話を優しい表情で受け止め、言い終わった後に申し訳なさそうに話し出した。
「先週は学校の関係でいつもと違う勤務で月曜と木曜と金曜の午後に入ってたんです。」
「あ、そうだったんですね…月曜とかに行けばよかった。」
実は土曜と日曜は予定の合間に無理やり顔を出していたんだけど、月曜は授業も午前のみで午後は暇だった。なんだ、その日に行けば良かったんだ…
「ご足労かけて申し訳ないです。」
「あぁ、いえ!全然いいんです。傘貸していただいただけでありがたいので。というか、むしろ土曜日結構強めの雨降ったじゃないですか。あずまさん雨大丈夫かなと思ってて…」
雨の予報が出ていた土曜日、まだ雲の影も見えない開店してすぐの時間帯に訪れたのにいなかった時は絶望した。
「あぁ…大丈夫ですよ。」
なんともないように彼は笑った。確かに、傘を借りてるとはいえ他の傘だってあるだろう。肌の色が白い彼は日傘だって持っていそうだ。まあ、今はそんなことはいい。何度も「重いだろうか」「いや、迷惑をかけているし…」の狭間で悩んで選んだお礼の品を渡す。
「あの、それでこの…お礼といってはなんですけど…これ。」
「え、なんですかこれ。」
「…ハンドクリームです。あの、お花触ってばっかりだと手が荒れちゃうかなって…もっとなんか食べ物とか軽いのにしようかなと思ったんですけどアレルギーとかあったらどうしようと思って…」
食べ物、お菓子くらいの方が軽くて良いかと思ったけど彼の食の好みなんてひとつも分からない、というか何も知らないのだ。そこで店長さんと世間話をしていた時に聞いた「花屋は手が荒れがちで…」の話を参考にさせていただいた。彼の手は白くて長くて綺麗だから、これからもそのままでいてほしいと思って選んだ。
「ありがとうございます。傘貸しただけなのにこんな大層なものを…」
「いや!すごくお世話になったので!」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。大事に使います。」
「ふふ、こちらこそありがとうございます。」
いつもよりも明るく笑った彼の表情は初めて見るものでドキッとした。紙袋を大事そうに受け取って優しく微笑むその一つ一つの仕草がたまらなく素敵だ。そんな彼に見惚れていると、ふと不思議そうな顔をして口を開いた。
「そういや、なんで水曜と土曜と日曜にこようと思ってたんですか。」
あ。まずい。そりゃそうだ。なんで自分のシフト知ってんだよって話だ。あずまさんのいる日ばかりに行っていたら怪しく思われるから普段はあんまり気にしないようにして行っていた。その結果あずまさんよりも店長さんの方が話しかけてくれて仲良くなれたのだけど、そんな努力もバレてしまったら意味が無い。焦る自分に対してあずまさんはどういう意味かわからない笑みを浮かべて言った。
「川崎さん、自分のいつものシフト知ってたんですね。」
「…すみません!あのそんなつもりじゃなかったんですけどどうしてもお会計の時シフト表が目に入っちゃって……あ、あのでも本当にそんなつもりじゃなくて!ストーカーとかじゃないです。」
本当に必死で弁明した。怖いとか気持ち悪いとか思われたくなくて必死で説明するけど、説明すればするほど怪しさは増すだろう。どうしようどうしようさっきまでせっかく良い感じのほんわかした雰囲気だったのに…怖くてあずまさんの反応が見れずにいると、あの優しい声が耳をくすぐった。
「自分がいると思っていつも来てくれてたんですね。」
「はい…あの、でも本当にあの、あずまさんの接客が良いなと思って、そんな変な意味じゃなくて…」
「ふふ、大丈夫ですよ。そんなに焦らなくて。嬉しいです。」
「…あ、え、そ、そうですか。」
「実は自分も川崎さんが来るの待ってたんです。傘貸す前からずっと、仲良くなりたいなって…連絡先、交換しませんか。」
ああ、これは幻覚だろうか。酸素を吸うのも忘れるくらい、目の前の人を見るのに必死だった。

5/14/2025, 3:10:33 AM

記憶の海

 記憶の海は広大で、目的地がどっちかなんてわからなくなってしまうほど深くて果てしない。その海を泳ぎ始めて戻れなくなって溺れるのが怖いから、過去は振り返らずに海から遠い今という山を登る。

5/10/2025, 1:01:59 PM

静かなる森へ

 実家はだいぶ田舎の方にあって、田んぼも山も森も川も自然がぎゅっと詰まったような場所。ランドセルを勉強机に置いたら急いで家を飛び出してあてもなく森へと駆けていく。木に登ったり、花を探したり、動物の鳴き声に耳を澄ませたり。そうやって日が暮れるまで自然と過ごした時間は、ふとパソコンに向かってばかりの現在を嘲笑うかのように夢に出る。もうどうやってもあんな時間は過ごせないのに、ビルに囲まれてばかりのマンションの近くには森なんてないのに。どうしても、あそこへ行きたくなる。

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