『梨』
縁側に座ると、秋の心地よい風がすっと通り抜けた。
祖母が持ってきた籠の中には梨が三つ並んでいた。
じっと、見つめていると朝露が反射し、きらきらと輝いていた。
「……。丙年の日、天下に認して、桑・紵(から
むし)・梨・栗・蕪菁(かぶら)などの草木を植えることを勧め、五穀を助けるよう命じた──……。」
「?」
弟が不思議そうに私を見つめた。
弟の口はまるでリスのやうに膨れ上がり、私はついふっと息を漏らしてしまった。
少し不満そうにもごもごと言っているが、その姿さえもリスのようだった。
「ごめんごめん、日本書紀の、日本語訳。最近読んだばっかなの。
持統天皇、飛鳥時代の天皇さんが、桑と、からむしと、梨、栗、かぶらを育てなさいっていう、意味。」
「ふーん。
……飛鳥時代……その時からこの味だったのかな」
「多分それは、違うと思う……。」
「そうだよな。
……んー、やっぱばあちゃんの梨は美味いな。
姉ちゃんは考えすぎ。」
弟は梨に夢中になり、歴史の話はもう興味無さそうだ。
上機嫌で梨を食べ、そして喉をつまらせ勢いよくむせてる弟を横目に私はため息をつき、1口梨をかじった。
しゃりっとみずみずしさが口の中で広がり、少し乾燥した口の中を潤わせ、あまい香りが私を包んだ。
「……美味しい。」
『LaLaLa Goodbye』
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La luna canta.
La luce incanta.
La notte si ammanta.
Goodbye
月は歌い
光は魔法をかけ
夜は静かにヴェールをまとう
神があなたと共にあらんことを
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1枚の手紙がポストの中に入っていた。
だが、差出人も宛先も住所も何も書いていなかった。
綺麗な封筒に、金の刺繍が施されており並の手紙ではないことは分かったが、招待状にしては妙であり、そして、なぜ私のような人にこんなに立派な手紙が届くのかが疑問だ。
手の凝ったイタズラだと思うことにし、私はため息をつき部屋へ戻って行った。
部屋へ戻っても閉まりきったカーテンにその隙間から少しの光が漏れるだけで、真っ暗であった。
私に朝が来ることはなくて、永遠に夜のままだ。
私は机の上に手紙を置いたまま、椅子に腰をかけた。
部屋の空気は冷たく、この無機質な時計の針だけが一刻一刻を私に伝えた。
封筒の金の刺繍はこの暗闇の中でも静かに光り、私はそっとなぞるようにその刺繍に触れた。
何となく懐かしいような、そんな感じがした。
私は知らない間に眠りにつき、そのまま突っ伏して寝てしまっていた。
目を覚ますとそこには手紙はなく、小さな鍵が置いてあり、それは無くしていたオルゴールの鍵であった。
私は引き出しの奥深くに眠っていたオルゴールの鍵を開け、そっとネジを巻いた。
小さい頃によくおばあちゃんが歌っていた、子守唄が流れた。
私は一つ一つの音を確かめるように小さく口ずさみ、微かな記憶を追いかけた。
なんとなく窓を開けると、そこには満月が夜を照らし、そして、カーテンを揺らした。
「La voce della notte mi chiama...」
夜の声が、私を呼んだ。
私は1本足を前へと踏み出した。
『どこまでも』
果てしなく続く空。
雨上がりの空には無理やり差し込んだ光が濡れたアスファルトを照らし、空だけは晴れたふりをしている。
濡れた靴を脱ぎ、裸足になり海辺を駆け抜け、制服には砂が着いてしまったがそれでも私は走り続けた。
地平線が見える海は私をどこまでも連れて行ってくれる気がし、私は歌を歌った。
溢れ出る涙に、しゃくり上げる声に歌が混ざり合い、
海の香りはしょっぱく、そして、雨上がりの海は冷たかった。
その冷たさは私を包み込み、海の音が私の心を優しく抱きしめた。
声が震えても、涙が混ざっても、歌は私の中から溢れ出た。
波は足元をさらっては引いていき、砂の上の足跡は瞬く間に私を置いていき、私の涙の跡も波は優しく拭った。
びしょびしょになったスカートを搾り、私はすっかりと乾いたアスファルトの上に跡を残した。
雲の切れ間から覗く光は私を照らし、道路に浮かぶ水たまりに星を映した。
風が髪を揺らし、濡れた頬を撫でた。
私は、どこまでも、歩いて行ける。
ある哲学者は言った。
楽しいから笑うのではない、笑うから楽しいのだ。
人は幸せだから歌うのではない。
歌うから幸せなのだ。
『どこへ行こう』
上も下も、右も左も分からない真っ白な世界で、私はただただ立ちすくんだ。
そこには何も無くて、色も、形も、存在も、何も無くてただ、私だけがいた。
無音の世界に恐怖し、掴めもない実態をすくい上げ私は止まらない涙に苛立ちさえも感じていた。
この世界は私が思っている以上に広くて、狭い。
この世界は私が感じている以上に面白くて、つまらない。
そして、私が居なくても世界は明日を迎える。
時間は無慈悲にも、誰にでも均等に与えられ、そして、奪われていく。
どこへ行こう。
いや、どこにも行きたくない。
私はただ、もう、何もしたくない。
息をするのも億劫だ。
孤独を謳歌し、人に知られず、死んでいく。
あぁなんて素晴らしいことだろう。
この真っ黒な胸騒ぎが私を孤独にする。
どこへ行こうにも、私は独りだ。
それがいい、それがいいんだ。
どこへ行っても嘲笑われ、踏まれて、蹴られて、私の精神はとっくに崩壊していて、私の隣は奪われ、消され、私を独りにする。
こんな世界なら、私は生きたくない。
この世界に、私が生きる意味はない。
でも、そんなこと言ったら、あの子は悲しむかな。
本物の天使かのようなあの子は、私が居なくなったら、私もそっちに行ったら、悲しむかな。
私は……私が1番行きたい場所は、あなたの横なのです。
あなたのまるで太陽のように温かい香りに、私の冷たくなった手を温めてくれる、あなたの隣に行きたい。
そして、あなたを優しく抱きしめたい。
あなたの隣に座るだけで、世界の輪郭は優しいものになる。
無音だった世界に、あなたの声が木霊する。
『どこへ行こうか』
可笑しそうに笑いながら、その子がそっと、私の頬に触れた気がした。
頬にふれたぬくもりが、温かく彩られた。
『未知の交差点』
嘘つきな五月雨を追いかけ、傘もささずにただひたすらに彼の影を探していた。
雨が頬を打ち付け、優しく微笑むあなたは見知らぬ人に傘を差し、私の涙は拭わずただ素通りするだけだ。
未知に隠れた言葉遊びをするだけで彼は私の本心を読み解こうともせず、朗読するかのように私を見つめる。
そんなあなたが嫌いで、あなたの元を離れようとするとあなたは私の腕を掴む。
その目はまるで嘘など知らないかのようにただ純粋で、雨に打たれた小さな子どもみたいで、私はあなたを抱きしめる。
赤と黄の点滅信号を繰り返すこの交差点に終着点はあるのでしょうか。
もし、誰かが背中を押してくれれば、そこが終着点になるのでしょう。