『やさしい雨音』
天に届きそうな尖った木々が生い茂る、山深い道の端に、小さな花束を供えて、私は手を合わせた。そして、空を仰ぎ見る。
サラサラ…サラサラ…
目を凝らさないとよく見えないほどの雨粒が降り注いでくる。
それは、私の眼にほどよく留まっていた涙を押し流すには充分な量であった。
頬を伝って流れる悲しみと怒りの擬態。
夫は、いえ、元夫は、ここで亡くなった。こんな山の中で。心臓発作だった。
結婚生活は、始めはうまくいっていた。でも、少しずつ歯車が狂った。夫は、転職を繰り返し、ギャンブルにもはまっていき、家にあまり帰って来なくなった。
根は良い人。子供にも優しい人。真面目な人。そんな夫の事を知っているからこそ、私は離婚を決断した。立ち直って欲しかったから。
夫は、何も言わずに出て行った。
私は祈った。夫のために願った。また帰ってきてほしいと。
でも、まさか3年後にこんな形で再会するなんて。
サラサラ…サラサラ…
–会いたい–
あなたは私を憎いでしょうね。今さらこんな事を思う私を許さないでしょうね。
サラサラ…サラサラ…
もし、今、天から雨を降らせているのがあなたなら。もし、この雨があなたなら。
触れるか触れないかのやさしい雨の粒と音に、いつまでも浸っていることを、どうか許してほしい。
#ショートストーリー#1-5「わたしの夫」
『ささやき』
突然聞こえてくるキーンという音。
ああ、また。耳鳴りだ。
不快感。眉間にシワがよる。聞きたくない。
私にだけ聞こえるから、他人にはこの苦しみは分からない。
でも、この音は、自分の心の声なのかな。
そして、私は、怖がらずに耳を澄ませてみる。
「大丈夫? 無理、していない?」
聞こえてくるのは、優しく心配するささやき声。
『元気かな』
誰かを「元気かな」と心配するあなたは、とてもとても優しい人。
そんなあなたのことを「元気かな」と心配してくれる誰かがいる。
お互いが想い会える、優しい世界。
そして、私は、遠くに住む母を想う。
『新しい地図』
行き慣れた道ではなくて、前から気になっていた道へ進んでみる。
それだけで、自分の頭の中の地図は更新完了!
恐れず怖がらず、進んでみる。
たとえ迷ったり行き止まりになったりしても、新しい地図は、進んだ分だけ出来上がる。
世界は広い。
そして、私は、宇宙へ目を向けてみる。
『空に向かって』
私は、今、いわゆる天の世界にいる。
この世界にはいくつか沼があり、その水面にはどうやら現世が見えるようだ。
今、映し出されているのは、ひざまづいている老夫婦。そして、女性とその子供の親子が何やらうずくまっている様子だ。私は沼に映る現世の世界に向かって、手を差し伸ばしてみた。
ぽちゃりと音がなる。
すると、眼下に見えていた人間の一人が、びくりと反応して上を向いた。
驚いた。私が空から見ているのが分かるのだろうか。
目があったのは、美しい女性だった。その女性は、何回かまばたきしてから、頭を下げた。すると、また目を空へ向けた。
涙交じりの哀しそうな顔だが、本当に美しい女性だ。
ー会いたいー
女性の口から出た言葉。
胸が痛い。締め付けられる。
私は、なんともいえない気持ちになり目を背けた。
私は、この世界にたった一人でいる。現世での記憶を捨ててきた。
空に向かって、会いたいとつぶやいたこの女性は、どんな人生を歩んでいるのか。誰に会いたいのか。
空に向かって願うことで、何かが変わるのだろうか。
私は、現世での記憶がない。しかし、空を仰ぎ見たことがなかったように思える。地面ばかり見て、自分の足先ばかり見て、希望を見い出すこともしなかったような気がする。だから、今、孤独なのかもしれない。
この女性の願いを叶えたい。
神でも何でも無い自分が言うのも何だが、強く思った。人のために何かをしたい、こんな気持ちは初めてのような気がした。
そして、私はまた、沼の水面に向かって手を伸ばした。
#ショートストーリー#1-4「手を伸ばした先」