『空に向かって』
私は、今、いわゆる天の世界にいる。
この世界にはいくつか沼があり、その水面にはどうやら現世が見えるようだ。
今、映し出されているのは、ひざまづいている老夫婦。そして、女性とその子供の親子が何やらうずくまっている様子だ。私は沼に映る現世の世界に向かって、手を差し伸ばしてみた。
ぽちゃりと音がなる。
すると、眼下に見えていた人間の一人が、びくりと反応して上を向いた。
驚いた。私が空から見ているのが分かるのだろうか。
目があったのは、美しい女性だった。その女性は、何回かまばたきしてから、頭を下げた。すると、また目を空へ向けた。
涙交じりの哀しそうな顔だが、本当に美しい女性だ。
ー会いたいー
女性の口から出た言葉。
胸が痛い。締め付けられる。
私は、なんともいえない気持ちになり目を背けた。
私は、この世界にたった一人でいる。現世での記憶を捨ててきた。
空に向かって、会いたいとつぶやいたこの女性は、どんな人生を歩んでいるのか。誰に会いたいのか。
空に向かって願うことで、何かが変わるのだろうか。
私は、現世での記憶がない。しかし、空を仰ぎ見たことがなかったように思える。地面ばかり見て、自分の足先ばかり見て、希望を見い出すこともしなかったような気がする。だから、今、孤独なのかもしれない。
この女性の願いを叶えたい。
神でも何でも無い自分が言うのも何だが、強く思った。人のために何かをしたい、こんな気持ちは初めてのような気がした。
そして、私はまた、沼の水面に向かって手を伸ばした。
#ショートストーリー#1-4「手を伸ばした先」
4/3/2025, 12:19:55 AM