『願いが1つ叶うならば』
「ねー。ねーったら!」
《架空の十月》は目の前の親友の髪を軽くひっぱった。編みおろした髪は金。ところどころに派手で軽薄なピンクが飛地のように混じっている。どういう仕掛けなのか、赤毛の少女《架空の十月》は知らない。
「聴いてるー? ちゃんと聴いてー?」
《とびきりの悪夢》は面倒そうに親友を見やった。面倒くさげな所作よりも、それを隠しもしないことが《とびきりの悪夢》の欠点だと《架空の十月》は常々思っている。
「聴いて! ちゃんと! トビアク!」
容赦のない略称で呼ぶ。《とびきりの悪夢》はあっさり寝たふりを再開した。
「ちょっと! ごめん! 謝るから聴けー!」
明らかに謝る態度ではないが《とびきりの悪夢》は仕方なさそうに顔をあげ、《架空の十月》に目をくれた。この辺りの人のよさが《トビアク》のよいところだ。と《架空の十月》は思っている。
「何だよ」
「質問なのですよ」
柄にもない丁寧体で《架空の十月》。
「願いごとを叶えてあげよう! って云われたら何願います?」
《とびきりの悪夢》は軽く視線を遠くに投げた。
再び《架空の十月》に焦点をあわせたときには、一瞬の空想から現実に戻っている。
「叶えるのは、おまえ?」
「ん、誰でもいいよ。とにかく何でも叶えてもらえるってことでよろ」
「んじゃ、おまえじゃないだろ……」
まったくもって夢がない。ついでに親友への信頼もない。
それでも辛抱強く待つ。しばらくの沈思ののち、《とびきりの悪夢》は息を吐いた。
「まぁ、願いごとか。基本的に自分の願いくらいは自分で叶えたいよな」
そんな《とびきりの悪夢》の結論は予想済み。だから《架空の十月》はそのまま無言をつづけた。静寂に負けたように《とびきりの悪夢》は片手をあげた。
「そうだな、叶えたい夢か。おまえが、俺の夢を叶えられるだけの立派な聖職者になることかな」
「おお……っと。そう来たか……」
《架空の十月》はたじろぐ。《とびきりの悪夢》は眇めた眼差しで念を押す。
「叶えろよ?」
「んまぁ、ご期待に添えるように努力はするし、聖職に就く予定ではあるんだけども、予定は未定で決定じゃないのさ」
《とびきりの悪夢》は軽く笑って赤毛の親友の額を指で弾く真似をする。
「がんばれ?」
何故か語尾を疑問形の如く釣りあげて《とびきりの悪夢》。
気圧されるように《架空の十月》は頷いた。
「がんばる……ます?」
外は夏の雨。
学府を卒業するまであと一年。つまり進路が定まるまでもう一年もない。
いずれこの学び舎から巣立たねばならない。入学したときには、その日まではあんなに遠く見えたのに。
予期せぬ静寂は雨音だけを響かせていた。
『嗚呼』
雨が降るひとりの部屋を浸しゆく心も沈む嗚呼えらが欲しい
『秘密の場所』
秘密。
誰にも打ち明けない。その場所は誰も知らない。
秘密を隠す場所は誰も知らず、見つけたとしてもそれがかの《秘密》だとも誰にも判別しえぬ。
何故その《秘密》が秘されなければならないのか、それも誰も知らない。
誰からも完璧に隠されすぎていて、誰も、知らない。《秘密》についてひとからも世界からも神からすらも隔離されていて。
もはや誰もこの世界に《秘密》があったことを知らない。いまもなお隠されていることを、知らない。
何もかもあけすけに、公平に、すべて開示されるこの世界で。
『ラララ』
「そんな能天気に歌って暮らすなんてできないね」
と、蟻が云った。
「君らとは違うんだよ」
云われたのはもちろん、キリギリスだ。
キリギリスは心外そうに反応した。
「あなたと私たちの、食い扶持を稼ぐ方法が違うってだけじゃないですか。それは大事なことですよ。同じすべしか持ってないなら、他人と分業できない。社会の経済がまわらない」
「難しいことはわからんが、とにかく。働かざる者食うべからずだ!」
蟻はへの字口。
「それ、使いかたが間違ってますよ」
キリギリスは穏やかに申し訳なさまでにじむ口調で訂正する。
「働かざる者、とは、資本家のことです。私たちは、あなたとは違うけれども働いてますよ。労働層です……」
「知識をひけらかして煙に巻くつもりだろうが、その手は食わん! 君らに分けるものなんてないんだ!」
ばたん。
蟻は巣の入り口に戸をたててしまった。
キリギリスはそっとため息。
蟻の不見識を嘆くこともできるが、とりあえずは食い扶持。稼ぐなら楽の音を鳴らすしかない。
十一月、小春日和。
まだ歌は歌える。
蟻の戸口の前で、キリギリスは歌い出す。
蟻がへそを曲げないように曲を選んで。
炭坑節ならいけそうか?
キリギリスとしてはもっと優美な曲が好みであったし得意でもあった。しかし聴衆の需要に応えるのがプロの音楽家。その矜持がキリギリスにはある。
足で小さくリズムをとりながら、奏でる。
きっと、蟻も気に入るはずだ!
キリギリスはまさに、プロフェッショナルだった。
『風が運ぶもの』
きみが結婚したと風の噂にききました。
ぼくがまだひとりでいると、きみに届かなければいい。
男は名前を付けて保存、女は上書き保存、とはうまく云ったものだ。
過去を振りはらって前を向いて進むきみからぼくは眼を逸らすしかない。
ただ、それでも、あの頃ならまだ可能性としてあったかもしれないきみとの未来を、いまでも夢みているわけじゃないんだとは断言する。きみとの未来はもう絶たれているのだとさすがにわかっている。
ぼくが未だにひとりだと、きみに届かなければいい。憐れみとともにふりかえらないで。――憐れみさえきみのなかに芽生えようもないのかも、しれないけれど。
ぼくの日常はきみなしでもささやかな幸せに満たされているよ。恋という要素が欠けているだけで。
風の噂がきみの幸せをぼくの耳に運んできます。
ぼくの何もがきみに届きませんように。
きみがぼくを思い出すこともないのだと、ぼくに思い知らせないでください。