もっとも必要であり、重んじられるもの。値打ちが大きいもの。
大切なものがあるとするならつまり、もっとも必要でなく、軽んじられ、値打ちが低いものも、またあるということだ。
もっとも必要でなく、軽んじられ、値打ちがないものは、どういうものか。
その存在を認識できないほど、ありとあらゆる生活の場面から締め出されたものか。
それとも、邪魔に感じるもののことか。
必要でないとは、それを欲することがまったくないということだ。欲しないから、あることに気づかない。あるいは、欲しないから邪魔に感じる。捨てたくなる。
しかし邪魔に感じるそれは、いつか欲したからそこにあるのだから、この先、それを欲する選択肢が現れる可能性はある。あることを知っているから、選ぶことができる。
するとそれは、“必要でないもの”ではなく、“今は必要でないもの”だろう。
つまり、あることに気づかないものほうが、より必要でないと言える。
かもしれない。
軽んじるとは、存在を認めないということだと思う。
実在を認めない。
触れるのか、見えるのか、嗅げるのか、音がなるのか、味はするのか、動くのか、意思はあるのか、それらを気にしていないことすら気にしないということ。
値打ちがない、ということを考えるのは難しい。貨幣経済の話をすべきだろうか、それとも資本主義か、それとも所有の話か、もっと他の相応しい何かがあるようにも思う。“値”とは何か。金銭的価値のことだろうか。だとすると、値打ちがない、値打ちがある、の意図するところは、それそのものではなく、それは今の社会、貨幣経済、資本主義社会、ある共同体の中でどう見つめられているか、という話になる。
たぶん。
もし大切なものがあるのなら、いま、わたしがあることにすら気づかないままでいる何かも、またある、ということだ。
もしその共同体が値打ちがあると見つめるものがあるとするなら、見つめることさえできていないものも、また、あるということだ。
わたしはいつもとりこぼす。
わたしの視野の外には常に豊かで広大なものがある。
わたしはそれに気づいてすらいないので、その魅力を見ることができない。できないということにすら気づかない。
見ることができないとすら気づかないままだから、あることにも気づかない。気づかないから、踏みつける。踏んでいると気づかないまま、踏んだままでいる。ずっと踏んだままだ。足をどかしたいと切に願っても、どこからどかせばいいのかわからないから、ずうっと踏みつけている。わたしが。
気づくためには、教えてもらうしかないのだ。なぜ、と思うが、しかし教えてもらうしかない。なぜ苦しんでいる側に、気づかれていない側に、さらなる労力を払わせるのだ、と怒りは湧くが、しかし、教えてもらうしかない。わたしは主体にはなれない。ただどうにかしてその声を聞かせてもらうしかない。教えてもらうには、わたしに気づいてもらわなくてはならなくて、だから話すことをやめたらだめだと書いてある本が、わたしはほんとうに好きだ。
生まれ育った場所は都会ではなかった。3階建ての学校が一番高い建物で、平日昼間の電車は1時間に1本、朝なら3本、バスもそれくらい。本屋は2店舗。車なしにいけるのは1つ。どちらも、もうなくなった。文房具屋とおもちゃ屋は、知る限りで1軒ずつ。おもちゃ屋はもうない。総合病院はなぜか2つ。小学校が6つ。中学校が6つ。高校は市立が1つ。ということは、わたしが感じていた以上に人はいた。まあしかし、都会ではなかった。
国道は通っていた。
そうして、ショッピングセンターができた。
わたしは店主の視線を感じず品物が見て回れる広いフロアが嬉しかったし、新しくて明るくて、品物はどれも素敵に見えた。
便利だと思った。
親戚の酒屋が何でも屋のようになっていくのも、たまに遊びに行っていた友人の肉屋が閉まりがちになったのも見ていたけれど、便利になって綺麗になって、新しい商品もたくさん入ってきて、そっちのほうがよかった。
でもたぶん、すっかりつまらなくなったと思っていた人もいるだろう。生活を見直さなければならない人だってたくさんいただろう。
大きな資本が入る、ということは、そういうことだと思っていた。生活の中で嬉しい部分もある。生活が破壊される部分もある。
で、エイプリルフール。
特にオンラインで見れるエイプリルフールに乗じた広告は、視界に入るどれもが、全くつまらないか、全くつまらない上に差別的な価値観を強化してしまっているかで、ここ何年かは4/1はぐったりする。
資本が入ったのだから、様々なものが破壊されたでしょう。それで、嬉しい部分はどこにいってしまったのだろう。嬉しい部分を見つけている人もたぶんどこかにはいるのだろうけど。
幸せにしあわせにシアワセニ
に。
に、だ。
幸せ、に願いを託す音。
幸せで、のことをまず考える。幸せで、なら、現状幸せである状態が続くよう欲することも指す。幸せであるように、あり続けるように。しかし、これが幸せに、となるとまず、これから先の話なのだ。今の有様への言及ではない。
幸せかどうかはわからない、何が待っているかわからない。
そういう未知の時をさす。
に。
ただわたしは、わたし以外の誰か、何か、環境についてか、ただ時間についてなのか、幸せであってほしいと願う、という宣言。
今がどうあれ、この瞬間より後のいずれかのとき、幸せであってほしい、欲を張るならその幸せを継続していてほしい、という意見。
願いは欲望でもある。
自らは努力はせずただ欲すること。
願いはいいわけでもある。
どうにかするつもりもない後ろめたさを糊塗するためのもの。
願いは、もちろん、おしつけでもある。
その対象の意見はどうあれ、わたしの思いが実現するように。
に。
わたしのこの気持ちがどうか報われますように!
に!
何気。なにかしようとするこころづもり。
ふり。挙動に現れた人の様子。
「何気ないふり」とは、なにかしようというこころづもりがない様子のことになる。
けれど、日常「何気ないふり」と使う時、そこに、何かしようとしているのに、という前提が含まれることが多くはないか。何かしようとしているように見えない、という言葉が、たちまち、何かしようとしているに違いないのに、に接続する。
なぜ。
わたしは、なにかしようとするこころづもりのない様子を表すとき「何気ない様子」と書くだろう。
しかし、ふり、が挙動に現れた人の様子であるなら、「何気ない様子」と「何気ないふり」は対象を人に限る(あるいは擬人化された何か)かどうか以外では同一の意味を持つ。
「ふり」と言葉を選ぶ時、見えているもの以上のことを知っている気分でいるのが、常態だということになりそうで、怖い。
常に対象の内心をわかっている、と思える状態が、普通だと。
あるいは、常に対象の内心がわかっている状態だと確信している状態が安心ということだろうか。
ねえでもそれって、ここ以外の文化からやってきた人を、“よそもの”を、恐れる姿勢につながる。
恐れは、避け、攻撃し、排除したいという欲望にたちまちつながる。
聞けばいいのに。
わからないと認めればいいのに。
わかったつもりになって、何気ないふり、と表現してはいないだろうか。
何気ないふりは、ただ、わたしからそう見えるというだけでしかないのに、わたしが見つめる対象の内心を常に予想させようとする。
見つめている対象に直接聞けばいいのに。
わからないと気づけばいいのに。
わかるはずがないものを、わかる前提で、言葉は選ばれることがある。