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何気。なにかしようとするこころづもり。
ふり。挙動に現れた人の様子。
「何気ないふり」とは、なにかしようというこころづもりがない様子のことになる。
けれど、日常「何気ないふり」と使う時、そこに、何かしようとしているのに、という前提が含まれることが多くはないか。何かしようとしているように見えない、という言葉が、たちまち、何かしようとしているに違いないのに、に接続する。
なぜ。
わたしは、なにかしようとするこころづもりのない様子を表すとき「何気ない様子」と書くだろう。
しかし、ふり、が挙動に現れた人の様子であるなら、「何気ない様子」と「何気ないふり」は対象を人に限る(あるいは擬人化された何か)かどうか以外では同一の意味を持つ。
「ふり」と言葉を選ぶ時、見えているもの以上のことを知っている気分でいるのが、常態だということになりそうで、怖い。
常に対象の内心をわかっている、と思える状態が、普通だと。
あるいは、常に対象の内心がわかっている状態だと確信している状態が安心ということだろうか。
ねえでもそれって、ここ以外の文化からやってきた人を、“よそもの”を、恐れる姿勢につながる。
恐れは、避け、攻撃し、排除したいという欲望にたちまちつながる。
聞けばいいのに。
わからないと認めればいいのに。
わかったつもりになって、何気ないふり、と表現してはいないだろうか。
何気ないふりは、ただ、わたしからそう見えるというだけでしかないのに、わたしが見つめる対象の内心を常に予想させようとする。
見つめている対象に直接聞けばいいのに。
わからないと気づけばいいのに。
わかるはずがないものを、わかる前提で、言葉は選ばれることがある。

3/31/2024, 10:54:19 AM