書く習慣、始めて100日と少し経ちました。
面倒がりの自分が毎日欠かさず書き続けられるとは思わなかったです。ここで書いたものを種に他の創作に活かしています。
またいいねをいただくたびに、人が居るのだなと、その距離感に助かることも多いです。
押してくださったみなさまありがとうございます。
運営さま、素敵な場をありがとうございます。
来年もよろしくお願いいたします。
どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。
矢の如しだが光陰であったかというと少々陰が多いように思える。人には人の光陰があるので誰かから見ればこの陰も光になるかもしれない。誰かの普通に救われることもあれば私の普通が誰を救うこともあるのだろう。「ただ在るといふことが」と宣ったのは八木重吉である。ただあるということが。と何度も反芻した年であった。
以下は来年の私への戒めとする。
誰かの普通を盾にしないように。
誰かの悲しみや怒りを己の承認欲や都合や自分の表明の隠れ蓑にしないように。
パフォーマンスで消費しないように。
何についても当事者がいることを忘れないように。
書くのをやめないように。
ご飯を食べるように。
体力をつけるように。
その暴力と慈しみに報いるように。
「みかんの皮の剥き方にもいろいろあるんだよ、知ってるか」と訊くので「らしいね、やったことはない」と答える。1個食べたら充分だし、1個のみかんを食べるために他の娯楽を見出す人間ではないので。
「見て」
かたつむり、花、いもむし、S字。
「ゲゲゲの鬼太郎が流行ってるらしい」
目玉親父のような。みかんから胴と手足が生えている。
器用に剥かれて彩られていくみかんを見る。
「誰がこんなに食べるんだ」と訊けば「君と私が」と答えが返る。これからもひとりのときはいつものように剥いて食べる。散乱したみかんの皮を片づけながら今この一瞬を笑う。
なけなしの休みが始まったがその間にお前の誕生日があるからどうにか気持ちは上がる。食事に行く約束をしている。外食をあまり好まないが、というか食事自体をあまり好まないのだが、お前がいるだけで心待ちの約束になる。俺は本来怠惰なので、わずかなこの冬の休みすべてをただ俺の怠惰のために過ごしたいが、同時にお前のことを愛しているので、お前が楽しいことをしてやりたいとも思う。
愛など情けなど慈しみなど。抱えて生きることになるとは思いもしなかった。
子狐はもう子狐ではなくなったのであの日買った手ぶくろをそっとそっと引き出しの奥にしまいました。ほつれや空いた穴を、母狐もしくは自分でずっとずっと繕ってきましたが、子狐はもう子狐ではなくなったので、大きくなってしまったので、その手にはもっともっと大きな手ぶくろが必要になったのです。子狐はあの日買った手ぶくろが大好きでした。日を追うごとに自分の手に入れたその手ぶくろがどれほどの宝か知っていきました。でももう手ぶくろはその手に見合いません。母狐はもういません。あのお店の場所ももうわかりません。大きな手ぶくろが必要なのに、冬が来ます。どうする?どうする?子狐は困っています。この手の冷たさと、どうやって生きていく?