まず生きていることが大前提として。
「これからが人生の正念場です。」
かな。既に萌芽は感じる。
乗り切れるか自分。
『10年後の私から届いた手紙』
最近とみに思うのは、当たり前だけれど、誰かにとって笑えることが誰かにとっては不愉快なこともあるということ。
お互い分かってやっている芸人のイジリなら出し物として笑えもするが、素人のイジリは見ていていやーな気持ちになるものが多い。
誰かを落として安易に笑いを取ろうとする。
愉快なサザエさんじゃあるまいし、みんなが心から笑えるわけではない。
……ちょっとトゲトゲしくなってしまった。きっと自分も誰かを傷つけてきたのだろうし、自戒を込めて。
『誰もがみんな』
優しさにひとつ気がつく ✕でなく○で必ず終わる日本語
俵万智がXで発表した短歌が話題になっている。最近よく耳にするマルハラについて詠んだものだ。
LINEなどのメッセージで文末に「。」(マル)をつけると、若者の一部は怒られているように感じるらしい。
句点で威圧感を与える、だからマルハラスメント。
若者ではないけれど、自分もたわいないメッセージなら句点はつけないことが多い。
しかしLINEでも真面目な話題や改まった相手だと句点はつけたい。「会話」から「文」へと空気が変わったらもうつけないと落ち着かない。文には必ずマルという固定観念がある。
「わかりました。」
「わかりました」
比べてみると、確かに上のほうが堅い印象はする。でも下だってそこまで柔らかい感じはしない。
ならば絵文字を加えたり、「わかりました〜」にすればいいのか?
どっこい絵文字や「〜」はおばさん構文なんだそうだ。知るか。
なんて斬り捨てずに一首つくる歌人の機知と温かさに敬服する。
『(ス)マ(イ)ル』
ここに書いた時点でどこにも書けないことではないしなあ。
どこにも書けないけど、ここでは書けること?
何かあったかな。
昔、2……やっぱりやめておこう。
『どこにも書けないこと』
針が止まってしまった家族の腕時計はクォーツ時計で、店で電池交換するより新品を買ったほうがいいような安物だった。それでもこの時計がいいと言うので、ボタン電池を購入して、百均の精密ドライバーで交換した。
無事に針が動きだしたら時刻合わせ。昔は電話で時報を聞きながら、ピッピッポーンで針を合わせたものだが、いまは電波時計を見ながら合わせる。
電波を受信して正確に時を刻む時計が発売されたときは、これは便利なものが出たと思ったものだ。
当時ちょっと奮発して電波ソーラー腕時計を買ったが、自分のようにあまり太陽の光を浴びない人間だと、いつのまにか針が止まっていて復活するまで時間がかかる。だから普段から甲羅干し、といっても室内だが光に当てなければならない。
故障して電波を受信しなくなったときの修理費も相当だった。
そう考えると、クォーツ時計には秒単位の正確さはないし電池交換や時刻合わせの手間もかかるが、気軽に使える良さがある。
それに、どんなタイプでも使い続ければ、その人にとってはその時計の針が一番見やすくなるのだろう。
『時計の針』