ポーカーフェイスになれる人を尊敬する。
自分では表情に出していないつもりでも感情が漏れていたらしく、眉間にシワが寄っている!と指摘されたことがある。自覚なく感情が露呈すると、かなり恥ずかしい。
悲しみをあえて表に出さない人には頭が下がる。
病気でつらいのに明るく振る舞う人、大切な人を喪ったのに微笑みを浮かべている人、傷ついているのに平静を装う人。
心配させないため、自分の心を防御するため。切なくなるが、見守ることしかできない。
個人的には、絶対怒っているのに怒っていないフリをする人が一番怖い。怒れないのではなく怒らない。謝罪を受け入れる隙さえ与えないので、相手はどうすることもできない。
自分もこの先、心底許せないことがあったらやりたいと思う。
『何でもないフリ』
集団に属したとしても、強い仲間意識を持ったことがない。
常に端っこのほうにいる人間なので、「仲間」という言葉には嫌気と憧れの両方を抱いている。
目標に向けて連携して動くのはいいが、一致団結!と精神論が出てくると、面倒なことになってきたぞと思うとか思わないとか……。
仲間との旅は虚構の世界で楽しむものだと思っている。結束を強めるために仲間外れを作り出す展開もない。
と言いつつも人恋しいときはあるので、好みや境遇が共通の人とたまに語れれば嬉しい。
ゆるい連帯感を持つ仲間、古いネットスラングでいう「ナカーマ」くらいの関係性が現実でも心地よいと思うのだが、どうだろうか。
『仲間』
心温まる話が出てこない。
むしろ、手を繋ぐ……パーソナルスペースを越える身体接触?
外国人は挨拶としてよく握手するが、お辞儀文化の日本人の距離感に慣れていると、人の手に触れることに抵抗がある。
子どものときは手繋ぎ鬼をしたり大人と手を繋いだり、わりと平気だったのが、自我が固まってくると他人との接触にためらいが出てくる。危機回避のためには自然なことかもしれない。
もう一生することはないだろうフォークダンスとか、介助とか、必要に迫られてする以外で、手を繋ぐという行為は性別問わず信頼する相手でないと厳しい。
手を繫げそうな相手を思い浮かべるとごく少数で、やはり特別に思っている人たちだ。
『手を繋いで』
ありがとう、ごめんねと言いたい相手。とりあえず親だろうか。
まずは育ててもらったこと、窮地で世話になったことの礼。そして謝罪。
不肖の子どもで申し訳ない。
期待を裏切って申し訳ない。
親の期待を裏切ったという自覚はあるし、実際に言われもしたけど、そのことで悶々とする時期は過ぎた。
ただ努力をすべきときに思いきり努力をしなかったことが人生に反映されていると、それは痛感している。精神的な面でも。
あのとき努力していれば、親の期待通りの人生でなくても別の人生が待っていたかもしれない。しかし、こういうふうに生まれてしまったのだから仕方ない。
開き直れるほどには年をとった。
失望しつつも放り出さなかった親にはやはり感謝している。
遅ればせながら今後の人生は少しは努力する予定。自分のために。
『ありがとう、ごめんね』
部屋の片隅にあるもの。
それは円くて黒いロボット掃除機。
大枚はたいて買った甲斐があったと思う。
まず部屋が片付く。床に物があると(よける努力はしてくれるけれど)作業効率が落ちるので、撤去したり棚にしまわないといけない。
つまり自分が片付けモードに入らないと稼働できない。
そもそも基地となる場所を作り出さないといけない。無事使えるようになるまで数日かかった。
フローリングをきれいに掃除してくれる。
ただし我が家のラグとは相性が悪いようで、自分でこまめに掃除機(従来の)をかけるようになった。フローリングとの対比でラグのゴミが気になるからだ。
怠惰な自分をちょっと成長させてくれた気がする。
こちらの指一本で黙々と、いや音を立てながら掃除する姿を見ていると健気にすら思えてくる。
今日も部屋の片隅で従順に待機している。
『部屋の片隅で』