あの人はいつも花の香りがする。
あの人が現れると私は匂いで分かる。
花の香りを辿っていけばあの人がいる。
凛として美しいその立ち姿に、私はいつも一輪の花を想起する。気高く研ぎ澄まされた、それでいて柔らかくあたたかな色味を持つ花を。
あの人が振り返ればその艶やかな長い髪もふわりと円を描き、流動した空気に乗って届く花の香りの濃度がわずかに増す。
その姿を目の前にすれば、漂う香りは私の鼻腔を満たして脳まで届き、肺を通過して全身を巡り始める。
この優しい香りは一体どこから来ているのだろう。
その髪。身に着けているもの。首筋。
もし、この人自身の香りなのだとしたら。
そこまで考えて、私は切り揃えたばかりの前髪をそわそわと触る。
私を呼ぶ声が花の香りと共に届く。あなたは私のことをいつまでも幼い頃の愛称で呼ぶ。
私はもう小さな子どもじゃないのに。
それでもどうしても、その香りに惹き寄せられて、その柔らかい呼び声に顔が綻んで。
私はいま確かに
花の香りに恋をしている。
『花の香りと共に』
目には見えないけれどそこに確かに存在するもの。
それ自体に色は持たないけれどそこに在る証拠を確かに持つもの。
風は頬を撫でる。空気は肺を満たす。
きみの心は両の瞳が映し出す。
それは色彩を反射して鮮やかに染まっていく。
見えないものは信じられませんか?
形あるものでなければこの手にすることはできないのでしょうか?
『透明』
書く。
思いを、感情を、考えを。
読む。
自分を、他人を、大切な心を。
仕舞う。
そこで見つけた大事な宝物を。
初める。
新たな彩りを得た新しい思考を。
この巡りは、お終いにしたくないなあ。
『終わり、また初まる、』
“わたしたち、ずうっと いっしょにいようね
ぜったい、やくそくだよ”
幼い頃はこうして、“絶対”とか“ずっと”とか、そうしたものの不確かさや疑わしさに微塵も思い至らず、無邪気に永遠の誓いを交わしたものだった。
こどもとは、純粋で可愛らしくて、時に残酷である。
やがて成長するにつれ、“絶対”などそうそう存在し得ないこと、“ずっと”とは“永遠”ではないということに気付いていく。
それらを口にする度に、言葉の上辺だけがふわふわと私の周りを漂い、その意味が持つ重さがずっしりとした質量を伴って腹の底に溜まっていくようだった。
そうしていつからか、不確かな約束の言葉を口にすることは無くなった。
時の経過と共に、言葉の契りがなくとも続いていく友情の温かさも知った。
それでも、幼い頃きれいな心で信じ切っていた約束を、今もまだ忘れられずにいる。
きっと私はいつまで経っても、その約束に永遠に憧れ続けるのだろう。
『約束』
「あの、一番光っている星まで競争しようよ!」
唐突に、ぼくらの眼前に広がる夜空を指差して彼女は言う。ぼくを誘うように振り返ったその顔はいたいけな少女のように無邪気だ。
おそらく今ぼくは死んだ魚みたいな目をしているのだろうが、彼女はそんなことはお構いなしにぼくの手を引く。
競争は好きじゃないんだ。走るのも嫌い。
「きみって本当に、顔で喋るよね」
心の中で何を呟いたのか、顔を見て理解したらしい彼女は可笑しそうに笑った。
顔の横に漫画みたいな吹き出しが出ていることがあるよ。と、前に言われたことがある。
彼女はそう言うけれど、ぼくとしては大いに反論したいところだ。まず、この凝り固まった表情筋のどこがどう動いて口よりも雄弁に語るというのか。
それに、それを言うなら君だって。嬉しいとき悲しいとき、甘えたいときや怒っているとき。移り変わる感情に合わせて繊細に変化していく表情が、言葉よりもたくさんの情報を乗せてぼくに語りかけてくる。
彼女はきっと気付いていない。その度にぼくがどれほど救われているか。どれほど魅せられてしまうかを。
君の内側から湧き出る感情が、瞳に宿るたくさんの想いが、ぼくの心を柔らかくしていく。
「じゃあここから、よーいスタートね」
やる気のないぼくに構わず楽しげに、適当に決めたのであろうスタート地点に立つ。
星々を背負って佇む彼女の手をぎゅっと握り締める。
「手を繋いでいたらできないよ」
彼女はまた無邪気に笑う。
そんなに急いで走らなくていいよ。
ゆっくり歩いていこうよ。
声にすべき言葉をぼくはごくりと呑み込む。
そんなことを言ったって君は、どうしたって走るのが好きなんだろうから。
「一緒に行こう」
手を繋いで走ろう。
それからときどき、ぼくに合わせて歩いてよ。
そうやって、ゆっくりあの星まで。
『夜空を駆ける』