「繊細な花」
花は子孫を残すために咲く。だから枯れることが前提である。そう考えると花は全て、はかない。そして花は全て繊細であるとも言える。受粉すれば実を結び種を作る。花にはその使命がある。
ある時、小さな小さな花が咲いていた。小さな小さな虫が蜜を求めてやってきた。お互いがお互いの為に小さな姿へと進化した花と虫の存在に感動して
「花はこの世界を見ている」
そう話した時、笑わずに真面目に聞いてくれた人がいた。いまの夫である。「見ている」という表現を使うとそれは擬人化で科学的な表現ではない。では植物はどうこの世界を知覚し得るのか?そうした研究は多方面からのアプローチで進んでいる。
植物は多様な生物の礎で、温暖化により、あまりに高温になれば、地表の植物が育たなくなる。特定の植物を主食にしている草食動物も絶滅する。肉食動物も連鎖的にそうなる。こうした連鎖は人間にとっても例外ではない。
「一年後」
明日のこともわからない
一年後のことはもっとわからない
ただ、わかることは
人と人が殺し合うことは
憎しみ以外、何も生まない
温暖化という人類共通の課題に
命懸けで取り組む時なのだ
殺し合う時でなく
手を取り合う時なのだ
「子供の頃は」
一寸の虫にも五分の魂
祖母にそう教えられた。
蝉を捕まえたいというわたしを神社に連れて行き、
「蝉の抜け殻なら捕まえて良い」そう言った。
仏教では殺生の罪は重い。それが自分自身でも。
大人になって尊い方からも学んだ。
寝る前に般若心経を三回唱えさせられた。
やがて、このお経の意味を
深く深く考える人生となった。
祖母は魚をさばき、その粗を鳶に分け与えた。
鳶はどこにいても祖母の姿を見つけると集まってきた。
その光景は何故か感動的だった。
命の尊さ、
祈りの大切さ、
全ての生命が支え合っていることを教えられた。
そうして家族が良ければと
あえて自分を犠牲にする
そういう道を歩いていた。
いまは遠い昭和の時代のお話。
いまのこの世界の有り様を知って
人類そのものの危機の最中で
今までと同じ価値観で良いのだろうか?
地球の環境すら変えられる私達
本当に大切なものとは何だろう?
その事を深く考える必要がある。
文化や伝統を守りつつ経済発展を続け
人類が存続できる未来環境を守り抜く
新たな価値観を築くのは並大抵の事ではない。
注意⭐︎推敲しました。
「日常」
何かを書くのは嫌いではない。
しかし自分の稚拙さに時に吐き気すら覚える。
ネットの中で小説を書く人はたくさんいた。
私より、はるかに上手かった。
でも、その様な人々でも小説家にはなれない。
物書きは星の数ほどいても
成功するのは、一握り。それが現実。
頑張らなければいけない。
努力を続けなければいけない。
でも、報われない。
そんな人はたくさんいる。
スポーツの世界でも
どんな世界でも似たようなものだろう。
でも、こんな私を救ってくれた神様がいる。
成功するだけが人生ではない。
神様が言葉をかけて導いてくれた。
私に起こった出来事は、いつかどこかで
必ず誰にでも起こるものと信じている。
「好きな色」
『色の導き』は、どこかの古本屋で手に入れた。カラーセラピストの泉智子氏の著作で、色の奥深さを知るきっかけとなった。そして私自身も泉氏の系列とは別のカラーセラピストの資格を得ることになった。他にも、いくつか資格を持っているものの、それらは、それぞれの世界の門をくぐったに過ぎず、何も知らない人よりは、少しわかる程度のものだと自認している。
色は、その人の心を映している。生まれや住んでいる場所、文化の影響も受けているし、個人的な体験、トラウマ、性格など、いろいろなものが映されている。ここで詳しく色について語るのは、やめよう。私達が色と呼ぶものは、可視光が人間の目に入り、色として知覚されるものだ。それだけ理解しておいて欲しい。
いま、私が一番好きな色はグレーだ。好きな色という定義の中に本当に入る訳ではなく、お気に入りの色と言うのが正しいかもしれない。グレーは白と黒の中間色で、白も黒もグレーも色彩を持たない。つまり無彩色だ。その中でもグレーは白と黒の間で自由な濃淡で時には淡く、時には濃く自在である。心理的には(個人的には)好きでもなく嫌いでもなく常に揺れている境界のなかにある色、例えば仏教の中庸の考えに近いと私自身は考えている。つまり正しい答えはなく、在るのはその瞬間の最善があるのみである。私のいまの心情に叶う色である。
私の好みはさておき、場面場面で心理的な支えとなってくれる色はたくさんあるので、グレーだけでなく、いろいろな色を生活の中で取り入れている。あなたも、カラーセラピストに相談したり自分自身で調べてみると楽しいかもしれない。
注意⭐︎推敲を加えました。