また明日と
言い合える人に会わず
皆死んだのだと
地に手を振る
(250806 またね)
浴衣の裾に滑り込む風は肌を撫でるかと思えば、熱風を当てて汗を吹き出させる。何を着ても暑さを凌げない苛立ちに、彼は襟に指をかけてはだけさせた。
首筋から汗が滴る。水晶を思わせる透明度の高い雫も涼やかに見せかけて、肌を嫌に舐める塩辛い水だ。特に背筋を伝う汗は、見えぬ人間の人差し指を当てられたような不快感を覚える。
暑い。ただ暑いとしか頭に沸き上がってこない。焦熱の陽光をぎらりと睨み返しても、熱はじりじりと増すばかりである。
不意に、目の端に虹色の何かが煌めいた。そちらを振り向けば、小さな泡が浮かんでいる。その泡にくっつくように、どこからいくつものの泡が飛んできた。泡は頬を寄せるようにくっついて、天に昇って、そして青空の中に溶けるように弾けていった。
鈴の音が響くと泡が飛んでくる。縁側の陰に涼む彼女が、シャボン玉のストローと容器を持って遊んでいた。手首に巻かれた鈴のついた腕輪が汗に滑り落ちる。しゃらんしゃらんと肌を撫でながら鳴っている。
汗だくの彼と目が合うと、彼女は暑さに紅潮した頬で微笑み、シャボン玉を吹いた。彼に向かって泡を飛ばしている。温い風に乗って、泡はくるくると回りながら涼やかに色を艶めく。
「ああ、あんな泡になりたいものですね」
彼はうっすらと笑みを浮かべて、じっとシャボン玉を眺めた。熱に潤う瞳に虹色の艶が混じり合う。あなたの吐息に涼む泡になれぬ我が身妬ましく炎ゆる心と、彼は煌めく泡沫を睨んだ。
(250805 泡になりたい)
冬場の乾燥した空気にやられた風邪よりも、夏場の炎天荒れ狂う日差しにやられた脳と心のダメージが酷い。それが昨今の季節の現状だ。猛暑の熱気に倒れてようやく夏が本当に来たと身をもって知る。
数年前は夏バテによる胃腸炎にかかり、去年は心身の疲弊から起きた百日咳で、肋骨の神経を痛めるほどに異常な咳を繰り返した。
そして今年は、建物の中で箱につまづき盛大に転んで肩と足を痛めた。周囲から貧血を疑われたが、単なる脳の誤作動である。私が足元の箱の存在を認識していながら、何故か箱がある方向へ歩んでしまった。転倒した時の衝撃に、転倒するまでの自身の動きが全く思い出せない。いい歳した大人が転ぶなんてと痛みよりも恥に涙ぐんだが、その日一緒に仕事をした人に面倒を見てくれた。また、別の人からも保冷剤を渡して心配をかけてくれた。
私は、良い人たちに囲まれた職場に安堵したが、チーフはとにかく私を早く帰らそうとした。今痛手を負ったまま帰宅すれば、炎天下の中肩を痛めながら自転車を漕ぐことになる。そんな想像が出来ないのなら、当然怪我を負った相手さえも慮ることは出来ない。
保冷剤を渡してくれた人が役職の異なる人だったと知ると、「あとで私からお礼を言ってくる」と焦るように言い出した。急に小声になって話しかけてくるから、最初はようやく帰宅する私に、怪我が悪化したら連絡するようにと心配しているのかと思った。
だが私は馬鹿であった。夏の暑さに脳が溶けていたのだ。この人は大人になれなかった子どもである。見栄を張ることに必死だ。下の者が勝手に転んで勝手に親切にされて、その中に役職の違う人までも気にかけていた。何たる不祥事と顔に出ていなくとも、言葉に滲み出ていた。
上の者らしい振る舞いをしようと見た目だけを気にする考え自体が幼稚だ。そのことに、チーフは未だ気づいていない。夏になると大人らしい理性が溶けて、より一層幼稚な頭になってしまう。一種の風物詩だろうよ。夏が来ると、またチーフが機嫌を損ねて愚痴を吐き散らすなと、酷暑の異常さよりも嫌気を差す。
ただチーフだけが夏の日差しに溶けて子どもになるのではない。皆ありえる話だ。熱帯夜でぎゃんぎゃんに泣き喚く赤子は、今年の夏も多そうだ。
灼熱を試練に人間を試す夏よ、今年も帰って来てしまったのか。お前の猛火の如き熱をやさしく抱きしめてくれる母は、一体どこに行ってしまったのだろうな。
(250804 ただいま、夏。)
「その、言うのが面倒臭くって、もうご飯食べて黙れば良いかなって」
彼女は歯切れ悪く言ったが、何度も何度も咀嚼を繰り返している。甘だれがからむ鶏胸肉を噛み締めては、箸を白飯の中に突っ込んで、噛み切れるのを待った。物欲しそうに茶碗を見つめている。悲しげな顔をしながら、まだ噛んでいる口の中に、白飯を放り込んだ。次に味噌汁の中に箸を入れる。かき混ぜながら飲み込むのを待つも、苛立っているのか。椀を持ち上げて口に当てた。中身の詰まった頬がより膨らんでいく。そして最初に食した肉の副菜に箸を再びつけた。咀嚼が止まらない。箸の震えも止まらなかった。
彼は、相手の言葉をずっと待っていたが、結局彼女が何を言いたかったのか分からなかった。彼女は、黙々と何かに焦りながら食事を続けている。咀嚼しながら、テーブルに置かれたパネルに触れて、次の料理を指先で突き刺すように注文した。
彼が待っている間に、コップの中の炭酸はすっかり抜け切った。ただのぬるい水と化した液体に無機質な電灯が鈍く光る。
(250803 ぬるい炭酸と無口な君)
「お前こそが一族を滅ぼす終の花だ」
宛名も差出人もいない無地の手紙は、記憶の波にさらわれて、頭の中の海馬に呑み込まれて、シロワニとなって無意識下の水面よりも遥かに深い海底で革命の時を牙を研いで狙っている。
(250802 波にさらわれた手紙)