見慣れたものの中には、物陰に隠れて輝きを失うものもある。
水の入ったコップも、必要な水分を補給できる道具であるが、ただそれだけしか利用されない。
しかし、qpという写真家が撮ったコップは芸術品に昇華されている。彼は『喫茶店の水』という変態的な写真集を出した。喫茶店に置かれたコップだけの写真しかない。シンプルな被写体には、自然光に照らされた喫茶店の歴史の明暗が、ガラスに反映されている。
たかが一杯の水、されど一杯の水。窓に差し込む日差しや店内の照明、観葉植物や家具、テーブルなど、あらゆるものが、小さなコップの水の中に映されている。さながら、宇宙を眺めているようだ。角度を変えて見れば、宇宙もその変化に合わせて数多の生命を輝かせる。
写真は、撮影する前から何を撮ろうかと、目の前に映る多くの被写体を切り落とす。そして、目について残されたものをカメラに収めて、シャッターを切る。
qp氏が、世界に多く溢れたものから喫茶店の一杯の水を選んでくれたおかげで、私はコップ一杯の輝きを芸術として楽しめるようになった。
(250217 輝き)
「時よ止まれ、お前はいかにも美しいから」
ファウストが求めた悪魔的な願望だ。神さえも止められない時間の流れに、必死に立ちはだかった彼の姿こそが、儚げで美しいだろうよ。
ただ、その美しさは現代でもう見られない。その言葉を言うのは、大人になれない子どもだけだ。地団駄踏んで、幼い頃、両親に愛情を受けられなかったことに死ぬまで悔やみ憎み狂い、大人になれなかった責任を親に求めて、自ら心の成長の時間だけを止めている。
幼心を抱えた大人の希少性を自慢したいだろうが、やはり時間の流れを止めた者は醜い。時移ろい衰えていく身体と時止めて幼稚にしかならない心は、実に見ていて不愉快だ。
少子化だと言うのに、子どもが増える矛盾した世界で、私は仕方なく大人になるしかないと腹を括った。子供騙しに妖精の羽を背中にしょって、目の覚める針の粉を子どもらにばら撒いてやろう。その針を目に突き刺して、内なる大人を叩き起こせ。さあ、もう新しい朝だぞ。
「時よ流れよ、お前はいかにも美しいから」
(250216 時間よ止まれ)
「君の声がする」
「違うよ、あばばばばってあやす母親の声だよ」
「それでも君の声がするよ」
「そうかな。沼近くの屋敷まで啜り泣く墓場に埋められた骨の音じゃない?」
「本当に君の声がするって」
「さあどうだが。きゅろきゅろと小鳥のように鳴く乳母車の子守唄だろうよ」
「結局君の声って何なの」
「家族みんな豚にしたキルケの脱糞音に掻き消された」
「そうなの。じゃあ、この杯の水をお飲みよ。喉が生まれ変わるように潤うわ」
「……モン、ヴェエル、ネエ、バア、グラン。メエ、ジュ、ボア、ダン、モン、ヴェエル」
「アニムス、ようやく君の声が聞こえたね」
(250215 君の声がする)
ありがとうと何度も言えば、
自分の想いが相手に伝わると身勝手に思うな。
感謝の台詞と共に頭を下げればいいという
無様な態度を示しているだけだ。
目も合わせないその顔が何よりの証拠だ。
ありがとうの言葉の中に、
お前の想いを無理やりに詰め込むな。
ちゃんと言葉にしろ、声に発しろ。
口に出せ、舌を鳴らせ、歯を噛み締め。
お礼の重みで潰された本心をすくい出せ。
今日あなたとお会いして心から嬉しいです。
六十にして耳順のあなたは、
いつでも初心を忘れず、瞳を輝かせ
だれにも分け隔てなく、笑みをたたえ、
耳を傾けた知識を皆に分けてくださる。
三十にして立つであろうわたしは、
あなたとは何度生まれ変わっても
お会いしたいから、
あなたの想いを私の遺伝子の中に取り組み、
後世の人々にお伝えしていきます。
あなたの意志を受け継ぐたましいを
この世によみがえらせます。
今日は、私の為に微笑んでお話してくださり、
ありがとうございます。
(250214 ありがとう)
樹の葉嚙む牝鹿のごとく背を伸ばし
あなたの耳にことば吹きたり
そんな短歌に今でも恋していると、暴風止んだ夜風に載せて、そっとお伝えしたいです。
【引用:『安野光雅きりえ百首』歌人/早川志織】
(250213 そっと伝えたい)