日の出は見えるだろうか。
地平線から顔を出す太陽をこの目で見たことがない。
そのお顔はみな建物の群れに隠されてしまう。
海まで行けば見えるだろうが、
道路やら防波堤やらとにかく高い塀と幅広い道で
海まで辿り着く道のりがあまりにも長い。
日の出は見えるだろうか。
太陽そのものより光が見たい。
陽光に照る光の波を触りたい。
波間に揺れる泡を身体に浴びたい。
泡沫になったたましいを授かりたい。
数多のたましい輝く太陽と出会いたい。
日の出は昇っただろうか。
(250104 日の出)
塩一トンの読書を続けていくこと。
作家の感情に溢れた血潮を自分のものにすること。
かれらの喜びも悲しみも全部、自分のこととして海原のように受け入れること。
ページをめくる指も、文字を辿る目も、言葉に研ぎ澄ます耳も、かれらの流した汗水をねぶる舌になること。
ただし、キャンディのように舐めてはいけないよ。
読書は娯楽ではない。人類の生存活動だ。
(250102 今年の抱負)
新年早々本が届いた。
去年の下旬辺りに自分で予約した物だが、元旦に届くとは思ってもいなかった。正月に本を手にしたので、まるでお年玉を貰ったようだ。嬉しさが込み上がってくる。
正月でも家に引きこもって、友人と遊ばないのかと、これまた知人友人さえもいない両親に口うるさく言われるが、私には本こそ友だちだ。
何でもかんでも繋がりを求めてくる生き物たちよりも、表紙を開けば、物語をささやき、知識を与え、数多の経験を語る本の中の住人たちと私は親愛なる橋をかけたい。
(250101 新年)
結局浴室のドアは新しい部品を付けても直らず、6000円も4時間も無駄にして怒りに怒りまくり、破壊の尽くす限り物を壊した。
よりによって、家族の者が詰め替え用のコンディショナーの蓋を閉め忘れたせいで、脱衣所の至る所がぬめぬめしている。その掃除は投げやりだ。不始末したやつが悪い。
ともかく、年末年始最後に不幸に怒り叫んだが、その不幸はどうも2つ以上襲来しないらしい。不運に吠えまくったから、一種の厄除けにはなっただろう。
近所には鬼子がいると恐れられているだろうから、巷で流行っている空き巣もこの鬼子を避けていくだろう。
私は今年になって、橋の下から生まれた鬼子になったから、来年は鬼となって育つだろう。
それでは、ゴミ溜めの鬼ヶ島より、よいお年を。
(241231 良いお年を)
この12ヶ月間は、よく転んでいた。
運命に悪戯された穴につまづいては転び、何も無いところでも転んでは大厄の歳をその身で知り、酷い時は自ら墓穴を掘った上、その穴に盛大に転びもした。
当然、満身創痍だ。一度は肋骨が疲弊骨折しかけたが、何とか無事でいる。足の傷やアザよりも、私の後ろにある穴ボコだらけの道がとても痛々しい。
だが、ただでは転ばない。
そうあらゆる内臓を煮えたぎらせ、倒れたまま転んだ先を見上げた。その先には、いつも芸術が立っていた。
マリー・ローランサンもオルフェーヴル号も志賀直哉も新美南吉も山本有三も小泉八雲も身身身ちゃんも谷崎潤一郎も、私の視線の先で待ってくれていた。
土塊と共に立ち上がった私は、彼らの芸術的遺伝子を授かりたくて、自らもう一度地に膝をつけて頭を垂らした。
いついかなる時も、例え足が折れようとも、彼らの芸術がこの血潮にある限り、私は何度でも立ち上がるとたましいに刻んだ。
再び顔を上げれば、天空に鴎が一羽孤独に飛んでいる。古今東西、波紋響く海面に映る鴎の影に向かって、私は一緒に羽ばたきたくて歩み出した。
(241230 一年間を振り返る)