オイてめえ、どのツラ下げてきやがった。
ああん? ちょっと通りたいだけだと?
ならこんなど真ん中来るこたあねえよ。
西でも東でもおめえさんには道あるからな。
それとも何か?
まさか、おれのシマ荒らしに来たってんだい!?
そんなつもりはなかっだあ!?
今まで散々甚大な被害出しといてよく言えるな!
おめえさんのせいで一体どんな惨状だったか!!
ただの雨と風!?
その雨と風のせいで
山が削れて川が増水して
ダムが決壊して街に浸水して
突風が起きて屋根や車が吹っ飛んだんだよ!!
人間軟すぎる!?
おーおーよう煽りなさんなあすっとこどっこい!!
ってオイコラ!
言った側からやりやがって!
いい加減弱まりやがれこの野郎!!
オイ、オイ! 聞いてんのかコラ!!
待て……いやさっさとどっか行け風小僧が!!
『突然の君の訪問。』
視界不良で足元どころか全身ずぶ濡れの中
傘の隙間から黒い影が見えて
驚きのあまり飛び退いて傘を落としかけた
近所の野良猫だった
『雨に佇む』
202X年8月22日
今日は閉店間際にお客さんが来た。
この時点でいつも走って乗っている電車を逃して、乗り換え駅で三十分待つことが確定した。
お客さんはいいよね、ここが最寄りだもんね。
きっと一時間に二本あるかないかの電車社会を知らないんだ。
閉店五分前に「試着してもいいですか?」の申し出が。
「ダメです」なんて断ったらクレームものだからニコニコ笑顔を浮かべつつ試着室へご案内。
(心は穏やかじゃない)
お客さんが着替えいるうちに閉店のチャイムが鳴った。
試着室から出てきたお客さんが「八時まででしたよね?」と聞いてきた。
「このフロアは七時半までなんです」と困り眉にして伝える。
八時まで営業しているのは食品だけだった。
お客さんが試着した洋服を買うと言った。
モバイルのレジは閉じてしまったから、集合カウンターの大きなレジでお会計。
クレジットカードをお客さんへお返しして、まだ動いているエスカレーターまでご案内。(ご誘導)
照明がほとんど落ちた店内でソワソワ落ち着かないお客さん。
「遅くなってすみません」とさすがに謝ってきた。
私はニコニコ笑顔でお気になさらず、と気取って言う。
「これからだと八時には帰れますか?」
「(現在時刻七時五十分)……はい!」
本当はカウンターに残っている社員さんにお礼を言って売上レシートをもらって売上合わせて在庫確認して品出しして売上管理表の計算して残高表も計算して他店売上を聞きに行って全部会社へデータ送信して電気機器の電源を落として着替えないと帰れないけど。
説明が面倒くさいので流した。
お客さんを無事に見送って売場に帰る。
もう何もやりたくない。
最低限だけ済ませて、あとは明日早番の私に任せてしまおう。
本日も一日、お疲れ様でした。
202X年8月23日
クソが
昨日の私の馬鹿野郎
納品二〇〇点あったんだぞ
返品振り回しも合わせて十数点あった
それにプラス昨日の私の仕事なんざやってられっかこの野郎
次は電車何本乗り遅れてでも片付けろ
わかったかこのアッパラパーが
『私の日記帳』
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私の心の中にある日記帳より抜粋
空調の効いたホテルラウンジの片隅。目の前の大きな窓ガラスからは、和洋折衷に整った花壇が一面に広がっている。一歩外に出れば灼熱の太陽がギラギラ輝き、前代未聞の最高気温を叩き出しているはず。
暑くて疲労の抜けない体に鞭を打って、私は淡くくすみがかったミントグリーンのワンピースに身を包み、ラウンジのソファに腰掛けていた。それなりに上品に見えるバッグとパンプス、パールが光るアクセサリーも身につけて。
「にしても最近は暑くて仕方ないので、もっぱらダイビングへ出掛けています」
「へぇ、そうなんですか」
「学生の頃、夏はダイビング、冬はスノーボードをやる大人数のサークルに入ってまして。活動のついでにダイビングの資格を取っていたんですけど。こうして社会人になってから休日の趣味になるなんて思いもしませんでした」
「すごい、素敵です」
「ドライブも好きなんですよ。夏はあえて窓を開けて風を感じながら海沿いを走るのがいいんですよ」
暑いしベタベタになるから絶対嫌。
心の悪態がバレないように、ニッコリと効果音が聞こえてきそうなくらいに口角を上げる。弧を描くように意識して目尻を垂れさせて、いかにも癒し系な女性を演じた。
目の前に座る男は、婚活パーティーで知り合った男性に紹介された人だ。
「アクティブそうに見える君にはきっとお似合いだよ」
なんて臭いセリフを吐き捨てた彼が物凄く憎い。話が合わないってだけで嫌味ったらしく声を掛けてきたのだ。のらりくらりと躱そうとして挑発に乗ってしまい、結局目の前の男と会う羽目になったのだ。
私はカップを持ってため息と一緒にコーヒーを飲み込んだ。ホットにしてよかった。私の座る席は空調の風向きに少し当たっていて、思ったよりも肌寒い。何か上に羽織るものを持ってくればよかった。
「ドライブ、ダイビング、スノーボード。あとは何かな。ああ、ソロキャンプも初めてみたんだ。動画サイトを見て楽しそうだと思ってね。これがまた最高なんだ。やはり日頃ブルーライトを浴びっぱなしだろ? だから自然を感じる時間って大事なんだ」
「そうなんですか」
「キャンプはいいよ。今や女性も一人でキャンプする時代だから、挑戦しやすいと思うよ」
生きた祖母の遺言。
【山で怖いのは熊より人間】
いい加減口角が限界に達してきた。顔がピクピクするが何とか堪える。
正直に言うと、このお見合いみたいな今の時間が無駄すぎて飽きてきた。この男、自分の話ばかりで私に話すら振らない。ちょうど会話が途切れたタイミングで話し始めようとしたら、話の導入部分で主導権を握られてしまった。
挙句、人の話は聞かないのに自分の話は聞いていないと不機嫌になるのだ。まだ小学生の甥っ子の方が聞き分けいいんだけど。私もしかして幼児の保育任されましたか。給料もらってないんですけど。
きっと紹介してきたアイツも、この男を熟知しているから私に与えたのだ。挑発に乗ってしまった過去の自分を恨むしかない。
「お話し中失礼致します」
この男の口がなかなか止まらないところで、ラウンジのスタッフから声が掛かった。うやうやしくお辞儀をした彼女は、メニュー表を広げてこちらに見せてきた。もうラストオーダーの時間らしい。
私はカバンからスマホを取り出して、時刻を表示させる。
「もうそんな時間なんですね。あっという間でした」
「いやー、話し足りないね。延長とかって出来ないのかな?」
やめてくれ。ここはそういう店じゃない。
男に突然話を振られたスタッフは、困ったように微笑んだ。見るからにまだ二十代の若い女の子だ。彼女から見れば明らかに年上のオジサンに絡まれて、どう躱せば失礼に当たらないか、まだ線引きが難しいに違いない。
私は眉毛を下げて向かい側に座る男と目を合わせた。
「すみません。実は私、門限がございまして」
「えっ、そうなの? そっかあ、女性は年齢関係なくそういうのがあるんだね」
言っとくけどお前と干支一緒だからな。ひと回り下って意味で。
先程男の話に出てきた干支を思い出しながら脳内で毒吐く。言葉の端々がことごとく癪に障る男だ。この年齢になるまで独身だったことにもはや納得してしまった。
私の一言ですぐに会計をし、ホテルを出た。西の空に茜色の太陽が辛うじて見える。ねっとりとした湿度の高い空気が、冷え切っていた体を包み込む。今は暖かく感じるけど、この心地よさが十分としてもたないことを今年の夏は学んだ。
「駅まで送ろう」
そう言って男は駅とは反対の繁華街の方向へ足を向けた。あからさますぎて逆に笑える。
私は引き攣り気味の口角に力を入れて、何も気が付かないフリをした。
「私こちらなので。本日はありがとうございました」
浅く頭を下げて、笑顔で男を見上げる。彼は拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「あっそうだ、連絡先」
「もう電車に乗らないと間に合わないので」
スマホを取り出してラインを開きかけた男を制した。もう連絡を取るつもりはない。
「それでは失礼致します」
私は男の言葉を待たずに駅の方へ歩き出した。特別引き留められることもなく、追いかけられることもない様子に、歩きながら安堵した。安心するとお腹がくうと鳴った。何だか無性に牛丼が食べたい。
私は駅の近くにある牛丼チェーン店へ向けて足を早めた。五時過ぎているし、夕飯はここで済ませよう。一人暮らしは気ままに帰宅できるから楽だ。
着飾るよりもTシャツとジョグパンツが好き。
アウトドアレジャーよりも屋内外問わずスポーツが好ましい。
ほとんど毎日ジムに通って体を動かす方が楽しい。
ラグジュアリーな空間より大衆向けの方が落ち着く。
高級品より身の丈にあった品を食べたいし身に付けたい。
私がこう言い出したら、あの男はラストオーダーなんて待たずして帰ったんだろうな。
『向かい合わせ』
それは突然の知らせだった。
私の大切な人が、交通事故で亡くなったと。
仕事中に掛かってきた電話に出れば、彼のお母さんを名乗る人からだった。少し不審に思ったけど、一度お会いした時に連絡先を交換していたことを思い出した。
電話口で聞いた話を、最初は詐欺か何かだと思った。彼が亡くなったなんて信じられなくて、電話を切った後、彼へラインを送った。そのメッセージは、マメに返信を寄越す彼にしては珍しく既読になっていない。
放心状態だった。
とても強いショックだけど、ドラマのように記憶を失うこともなければ記憶が曖昧になることもない。発言や行動がおかしくなることもないし、心や体は不思議と目まぐるしく動いていた。
彼の葬儀には通夜も告別式もお焼香をあげに訪れた。顔合わせのご挨拶ぶりにお会いしたご両親は顔色が悪く、私と目が合うと逸らして会釈をした。
「次に会うときは、由依さんのドレス姿が見られるのね」
「由依さんはきっと何を着ても似合うだろうから、選ぶの大変そうだな」
遠方に住む彼のご両親は頻繁に会えないことを残念がって、そう口にしていた。彼は恥ずかしそうにご両親を咎めていたけど、まるで自分のことのように喜ぶ姿をこの目で見た。この家族の一員として私をカウントしてくれることが嬉しくて、人生で一番幸せな時間だった。
彼にとって大切な家族で、私にとってこれから大切にしていきたい方々だ。
でも何て声を掛ければいいのか分からなかった。
結局無難な挨拶とお知らせをくださったお礼、始め電話口で無礼な態度を取ったことを謝罪してた。
彼のお父さんは口を固く結んで頭を下げ、彼のお母さんはハンカチを目に当てて「来てくれてありがとう」と小さな声で言った。それ以降、顔を突き合わせながら双方で黙ってしまった。忙しない会場内で、唯一静かだったのはここだけかもしれない。
「由依さん」
彼のお父さんが口を開いた。
「息子の……大希のことは、もう忘れてください。忘れて、どうか、幸せになってください」
その言葉を聞いた瞬間、私は頭に血が上った。
「忘れません」
会場内が一瞬、静寂になった。すぐにざわつきが戻ったけど、周りの参列者は私をチラチラ見ていることが肌で分かった。
「私はこれから素敵なご縁に恵まれて、大希さんとは別の男性と結婚して、子供を授かるかもしれません」
ご両親は顔を上げて目を丸くし、こちらに意識を向けているようだ。
「でもそれは、大希さんを忘れるとは別の話です。忘れません、絶対に。大希さんと将来を思い描いたこと、あなた方と親族になれたかもしれなかったこと。一時的ではあったけど、幸せな時間を過ごさせてもらえたこと。決して忘れません」
私は深く頭を下げた。頭上からはご両親の嗚咽が聞こえる。私は顔を上げることも、涙で濡れた顔を拭くこともできなかった。
『やるせない気持ち』