139

Open App

 空調の効いたホテルラウンジの片隅。目の前の大きな窓ガラスからは、和洋折衷に整った花壇が一面に広がっている。一歩外に出れば灼熱の太陽がギラギラ輝き、前代未聞の最高気温を叩き出しているはず。
 暑くて疲労の抜けない体に鞭を打って、私は淡くくすみがかったミントグリーンのワンピースに身を包み、ラウンジのソファに腰掛けていた。それなりに上品に見えるバッグとパンプス、パールが光るアクセサリーも身につけて。

「にしても最近は暑くて仕方ないので、もっぱらダイビングへ出掛けています」
「へぇ、そうなんですか」
「学生の頃、夏はダイビング、冬はスノーボードをやる大人数のサークルに入ってまして。活動のついでにダイビングの資格を取っていたんですけど。こうして社会人になってから休日の趣味になるなんて思いもしませんでした」
「すごい、素敵です」
「ドライブも好きなんですよ。夏はあえて窓を開けて風を感じながら海沿いを走るのがいいんですよ」

 暑いしベタベタになるから絶対嫌。

 心の悪態がバレないように、ニッコリと効果音が聞こえてきそうなくらいに口角を上げる。弧を描くように意識して目尻を垂れさせて、いかにも癒し系な女性を演じた。
 目の前に座る男は、婚活パーティーで知り合った男性に紹介された人だ。

「アクティブそうに見える君にはきっとお似合いだよ」

 なんて臭いセリフを吐き捨てた彼が物凄く憎い。話が合わないってだけで嫌味ったらしく声を掛けてきたのだ。のらりくらりと躱そうとして挑発に乗ってしまい、結局目の前の男と会う羽目になったのだ。
 私はカップを持ってため息と一緒にコーヒーを飲み込んだ。ホットにしてよかった。私の座る席は空調の風向きに少し当たっていて、思ったよりも肌寒い。何か上に羽織るものを持ってくればよかった。

「ドライブ、ダイビング、スノーボード。あとは何かな。ああ、ソロキャンプも初めてみたんだ。動画サイトを見て楽しそうだと思ってね。これがまた最高なんだ。やはり日頃ブルーライトを浴びっぱなしだろ? だから自然を感じる時間って大事なんだ」
「そうなんですか」
「キャンプはいいよ。今や女性も一人でキャンプする時代だから、挑戦しやすいと思うよ」

 生きた祖母の遺言。
【山で怖いのは熊より人間】

 いい加減口角が限界に達してきた。顔がピクピクするが何とか堪える。
 正直に言うと、このお見合いみたいな今の時間が無駄すぎて飽きてきた。この男、自分の話ばかりで私に話すら振らない。ちょうど会話が途切れたタイミングで話し始めようとしたら、話の導入部分で主導権を握られてしまった。
 挙句、人の話は聞かないのに自分の話は聞いていないと不機嫌になるのだ。まだ小学生の甥っ子の方が聞き分けいいんだけど。私もしかして幼児の保育任されましたか。給料もらってないんですけど。
 きっと紹介してきたアイツも、この男を熟知しているから私に与えたのだ。挑発に乗ってしまった過去の自分を恨むしかない。

「お話し中失礼致します」

 この男の口がなかなか止まらないところで、ラウンジのスタッフから声が掛かった。うやうやしくお辞儀をした彼女は、メニュー表を広げてこちらに見せてきた。もうラストオーダーの時間らしい。
 私はカバンからスマホを取り出して、時刻を表示させる。

「もうそんな時間なんですね。あっという間でした」
「いやー、話し足りないね。延長とかって出来ないのかな?」

 やめてくれ。ここはそういう店じゃない。

 男に突然話を振られたスタッフは、困ったように微笑んだ。見るからにまだ二十代の若い女の子だ。彼女から見れば明らかに年上のオジサンに絡まれて、どう躱せば失礼に当たらないか、まだ線引きが難しいに違いない。
 私は眉毛を下げて向かい側に座る男と目を合わせた。

「すみません。実は私、門限がございまして」
「えっ、そうなの? そっかあ、女性は年齢関係なくそういうのがあるんだね」

 言っとくけどお前と干支一緒だからな。ひと回り下って意味で。

 先程男の話に出てきた干支を思い出しながら脳内で毒吐く。言葉の端々がことごとく癪に障る男だ。この年齢になるまで独身だったことにもはや納得してしまった。
 私の一言ですぐに会計をし、ホテルを出た。西の空に茜色の太陽が辛うじて見える。ねっとりとした湿度の高い空気が、冷え切っていた体を包み込む。今は暖かく感じるけど、この心地よさが十分としてもたないことを今年の夏は学んだ。

「駅まで送ろう」

 そう言って男は駅とは反対の繁華街の方向へ足を向けた。あからさますぎて逆に笑える。
 私は引き攣り気味の口角に力を入れて、何も気が付かないフリをした。

「私こちらなので。本日はありがとうございました」

 浅く頭を下げて、笑顔で男を見上げる。彼は拍子抜けしたような表情を浮かべた。

「あっそうだ、連絡先」
「もう電車に乗らないと間に合わないので」

 スマホを取り出してラインを開きかけた男を制した。もう連絡を取るつもりはない。

「それでは失礼致します」

 私は男の言葉を待たずに駅の方へ歩き出した。特別引き留められることもなく、追いかけられることもない様子に、歩きながら安堵した。安心するとお腹がくうと鳴った。何だか無性に牛丼が食べたい。
 私は駅の近くにある牛丼チェーン店へ向けて足を早めた。五時過ぎているし、夕飯はここで済ませよう。一人暮らしは気ままに帰宅できるから楽だ。

 着飾るよりもTシャツとジョグパンツが好き。
 アウトドアレジャーよりも屋内外問わずスポーツが好ましい。
 ほとんど毎日ジムに通って体を動かす方が楽しい。
 ラグジュアリーな空間より大衆向けの方が落ち着く。
 高級品より身の丈にあった品を食べたいし身に付けたい。

 私がこう言い出したら、あの男はラストオーダーなんて待たずして帰ったんだろうな。


『向かい合わせ』

8/26/2024, 12:24:58 AM