お気に入りのソファに腰を下ろして
引き立ての美味しいホットコーヒーを飲みつつ
いろんなジャンルの映画やドラマを観て夜を明かす
あなたの隣に座って過ごす休日の夜が
毎週当たり前になればいいのに
『日常』
社会人になるとき、洋服の接客業を選んだことを後悔した。
勤め先の百貨店はかつての活気あふれるイメージから一転、ご年配客の散歩道となっているからだ。
喋りにくる客、声が聞こえてない客、むしろ私が見えていな客。わざと無視されているのでなく、お客さんが店員の話を見聞きする姿勢ではないということだ。だから本当に私の声も存在もすぐそばにいても届いてないのだ。
閑散とした店内で、毎日「誰かが何か買ってくれないか」と神頼みするのだ。
そんな中、気が滅入ることを言われると、ただでさえ落ち込んでいるのに追い討ちをかけられた気分になる。三十路をとうにすぎた、世間でいう「年増」で「中肉中背」の私に対して、
「若いんだから何でも似合うじゃない」
「貴方みたいにスタイル良ければ」
とそんな言葉を投げかけられる。お客さんにとっては一回なんだろうけど、私たちは一日通して何十回、それを毎日言われるのだ。何か上手いこと言い返そうと考えるけど結局何も思いつかなくて、笑って濁すのが定番である。
もう聞き飽きた。何か違うパターンないだろうか。
また、こんな言葉を言われることがある。
「綺麗な色だけどもう私、シワクチャのおばあちゃんだから着られない」
なんだそれ。
実際には「そんなことないですよ」と返して鏡の前まで誘導するのだが、私の心は言われるたびそう返事してる。
なんだそれ、関係ないじゃん。
どうせこんなこと言うお客さんはその"おばあちゃんらしい色"にはこう答えるのだ。
「すっごく地味」
「イマイチピンとこない」
「肌が汚く見える」
「シミ、シワが目立つ」
だからいちいち気にする必要はない。
私は遠慮なく、お客さんの好きな綺麗な色をどんどんオススメする。お客さんが綺麗と発言したということは、少なくともその綺麗な色に興味がある、もしくは好感を持っているということだからだ。
*
入社して一年目の頃、接客したお客さんのことを今でも覚えている。
それは一日一回、接客できたかできてないかの究極に暇な店舗に配属された時期の話だ。一人で店番をしていると、ご年配のお客さんがご来店された。
年齢は六十代半ばだろうか。小柄で華奢な体型だが、化粧を施されてくっきりとした目鼻立ちと明るい金色に染められた髪から、かなり活発な印象を受けた。
私は慌ててニッコリ笑い挨拶をすると、お客さんが口を開いた。
「あのね、ニット探してるんだけど」
一言喋ればあまりのハスキーボイスに心配してしまった。酒豪か、ヘビースモーカーか。それとも何かしらの病気かと。
「まだ寒い季節だけど新しいものがほしいの。何かなーい?」
お客さんの発言に対してまたもニッコリ笑って、とりあえずそばにあった春の綿ニットを見せた。白に近い淡いグレーな色合いは、お客さんの世代に人気が高かったからだ。
お客さんは私のさすらいな説明にふーんと相槌を打ってくれた。でもどうやらお気に召さなかったようで、お客さんが他の商品を求めてラックを見やる。すると、お客さんが豹変したのだ。
「やあだぁー、何これ! すごく可愛いじゃない!」
お客さんは、私が紹介した春の綿ニットの色違いを手に取った。私は思わず「あっ」と声に出してしまった。
お客さんが手に取ったのは真っ赤な色のニットだったからだ。
一応アプリコットレッドという名前がついているのだが、鮮明な赤と想像してほしい。スタッフ同士でこの商品を見た時、「誰が買うんだこの色」と恐れ慄いてしまった今期迷品暫定一位のカラーニットである。
店頭に並んでから一ヶ月程度経過しているが、ご年配のお客さんには特に受けが悪かった。赤という色味に対して敬遠される人もいたし、強い拒否反応を示す人もいた。だから自然と私たちもお客さんに紹介することを躊躇うようになったのだ。
お客さんは鏡の前に立ち、ニットを顔の下に合わせる。私の焦りとは裏腹に、お客さんの顔が一段と輝いた。顔の血色は赤色の効果か、それとも可愛い洋服に出会って興奮したからか。角度を変えて鏡を覗き込んでいる。
お客さんのテンションはどんどん上がっていき、入店された時と印象がだいぶ変わっていた。
「私、こういう明るい赤大好きなの! 最近はなかなか見かけないのよ、こういう赤は。何で作らないのかしら?
ほら見て! 似合うでしょう? 私この色昔から似合うのよ。十歳くらい若く見えるでしょう? もう七十超えてるんだけどね、似合うでしょう? もうすっごく素敵だわ!
決めた、これもらう」
即決だった。何かもが早すぎた。デザインもサイズもちゃんと確認してないのに、お客さんはそれでもいいと言わんばかりの勢いだった。
私はポカンとしながらお客さんから商品を受け取っていた。手早くサイズを確認して会計を済ませ、お見送りをする。そうしてようやく商品が売れたという実感が湧いてきたのだ。
売れた商品の新しい在庫を出しながら、お客さんがどんな人だったか思い返した。
あの赤いニットを上半身に当てた時、本当に似合っていたのだ。顔まわりがパァーッと明るくなって華やかになり、よりエネルギッシュな印象を受けた。肌が健康的な白さで輝いていたし、髪の毛の艶が増した。そして何より、と考える。
好きな色に出会った時のエネルギーはやばい、と。
あそこまで「大好き」と豪語されると、きっと穴が開くまで着倒してくれるだろうと確信できた。いや、穴が空いても縫って着てくれるかもしれない。流行遅れだろうと、多少色褪せてしまおうと、あの手この手と試行錯誤してコーディネートを組むお客さんが想像できた。
何としてでもこの色を身に纏いたい。
そんなお客さんの思いがこちらにまで伝わってきた。
*
この日以降、TPOに反していなければお客さんの好きな色からオススメするようになった。
人は好きな色の洋服を箪笥の肥やしにしない。絶対どうにか試行錯誤して着てくれる。何より好きな色を着た人は、着る前に比べて百倍は嬉しそうな顔をされるのだ。
だから年齢なんて関係ない。昨今のパーソナルカラーや骨格診断などもわざわざ気にする必要はない。ただ純粋に、好きな洋服を着ることを楽しんでほしい。
もし今後、洋服を選ぶ上で好きな色があったら真っ先に選んでほしい。絶対に似合うから。絶対に似合うように自分から洋服へ寄っていくから。売れない販売員が保証します。
『好きな色』
仕事に、育児に、介護に、娯楽に。
普通に生活している間で、なんとなく思い出す。
まだ何もかも未熟で、勢いしかなかったあの頃。
貴方と過ごした日々がどれだけ楽しく、面白く、優しく、温かかったかを。
何十年も前の話だから、貴方の顔も、声も、香りも、名前も思い出せないけど。
あの青い日々の雰囲気だけを思い出しては、なぜか微笑ましくなるの。
きっと、貴方とのかけがえのない日々だったから。
『あなたがいたから』
しとしと雨が降り続く季節になった。この間梅雨入りしたら、雨が待ってましたと言わんばかりに昼夜問わずずっと降っている。
何日連続雨の日が続いたのに、今朝は快晴でカラッと晴れた。久々の青空に少しだけ浮ついていたんだと思う。てっきり雨は降らないんだと勘違いした俺は、傘を持たずに登校した。
そして今、まさに帰ろうとした途端、土砂降りの雨が降ってきたのだ。
ザーザーという音がぴったりの大量の雨を前に、俺は立ち尽くしていた。友達や他クラスのやつはみんな傘を持っていて「お先!」と言って帰っていく。
俺だけ一人取り残された。寂しいけど仕方ない。傘を忘れてしまったのは、俺だからだ。
暗くてベタベタする空気の中、空を睨んでいると隣からバンッと傘を広げる音がした。
「入れば?」
そんなぶっきらぼうな声を掛けられて傘を差し出された。
「いいの?」
俺は驚いて君を見た。つい先週、クラスの人に揶揄われるからって距離を置いたばかりなのに。
「いいんじゃない? ほら早く。私、早く帰ってドラマの再放送見たいの」
君はニヤリと笑って「入れてやるからお前持てよ」と傘を突き出してきた。俺は君が好きな薄緑の綺麗な傘を受け取って、空に広げた。
不思議なことにいつも君に頼るたび、君がどんどん魅力的に見えてくるんだ。君は一体どんな魔法を俺にかけているんだろう。
『相合傘』
あっ、落ちた。
気が付いたときにはもう手遅れだった。
チャイムが鳴ると、皆一斉に机の上を綺麗にし始めた。黒板の前に立つ先生は、まだ続けたそうな顔をしていたが、諦めたように手の中の教科書を閉じた。
「続き来週やるから、その時はキリがいいところまでやるからな!」
そう先生は言い残して教室を去っていった。
私は教科書やノートをしまって、財布を取り出した。今日は暑くて持ってきた水筒のお茶がなくなってしまったのだ。自販機で追加のお茶を買いに行こうと思った。
「サキちゃんごめん、私購買行ってくる」
椅子から立ち上がった私のそばに、ナナコちゃんがやってきて両手を合わせてきた。
「私も飲み物欲しいから、一緒に行こう」
私がそう言うと、ナナコちゃんはニコッと笑った。そうして二人で話しながら一階の購買と自販機コーナーまで連れ立って歩いていた。
階段に差し掛かって、上から急いで降りる人や下から上がってくる人たちを避けて端っこを通っていた。それでも話は途切れなくて、いよいよナナコちゃん所属している部活の先輩の恋愛話になり、つい、会話が盛り上がってしまった。夢中になって話していたから注意散漫になっていた。だから、ナナコちゃんが急いで駆け上がってきた人と肩同士がぶつかったときに、咄嗟に反応できなかったのだ。
「きゃあっ」「ってぇな」
その声はほぼ同時に聞こえた。こちらをギロリと睨んだだけで、その人はどんどん登っていったけどこちらは違う。バランスを崩したナナコちゃんは前のめりになって、階段を落ちそうになったのだ。
咄嗟のことで声すら出なかった。必死に手を伸ばしてナナコちゃんの腕を掴んだ。
その時、横から別の腕がナナコちゃんに伸びてきた。私よりも速いスピードでナナコちゃんの腰に手を回していたのだ。その手のおかげで、ナナコちゃんは階段から落ちずに済んだのだ。
「あっぶねぇな」
そう呟いた声には聞き覚えがあって、伸びてきた手の持ち主を見上げた。そしたら、同じクラスの西岡くんだったのだ。私はすごく驚いてしまった。
西岡くんはクラスの中でもその輪から抜けていて、いつも隅っこの方でゲームしている大人しい子なのだ。なんだか声も掛けづらいし、いざ話すことがあってもボソボソ喋るから何言っているか分からないし。
そんな子が、階段で滑り落ちそうな女の子を、助けたなんて。
なんで少女漫画なんだろうと場違いに考えてしまった私は、まだナナコちゃんの腕を握っていた。
西岡くんはナナコちゃんが立ったのを確認して手を離し「大丈夫っすか」とぶっきらぼうに聞いてきた。ナナコちゃんは言葉が見つからないのか、大袈裟に頷いていた。
「ありがとう、ございました」
「っす」
そう返事して、西岡くんは手早く床に落としていたパンを拾って階段を上っていった。
私はナナコちゃんに咄嗟で何もできなかったことに対して謝ったのだが、ナナコちゃんはなぜが上の空だった。何度か呼びかけて、やっと返事があったくらいだ。
「どうした? やっぱり怪我してる? 保健室行く?」
心配して何度も問いかける私に、キッパリとナナコちゃんは言った。
「大丈夫、外傷はないから」
「いやでもボーッとしてるから」
「それは、だって」
ナナコちゃんは何故か顔を赤らめて手をもじもじさせている。私は特に何も言われてないはずが、どういうことか察してしまった。
「西岡くんって、彼女いるかな?」
人が恋に落ちるところなんて、初めて見た。
『落下』