相合傘って、肩が濡れている方が惚れているらしい。
何年か前のSNSで知った話だ。相手のことを濡らしたくないって思いで傘を傾けるからだそうだ。
雨が降り出すと、やったこともない相合傘に思いを馳せた。
午後から雨予報だった今日は、五時間目の最中に降り出した。さっきまでは眩しいくらいに快晴だったのに。お昼休み頃から雲行きが怪しくなった。
私は六時間目の授業が始まる前にスマホを取り出した。天気予報のアプリを開くと、現在地の情報が入ってる。夕方五時に雨は止むそうだ。
窓の外でしとしと降る雨を見上げた。どんよりとした曇り空を見て、本当に止むのだろうかと思ってしまった。
傘は持ってきている。青い水玉柄の折り畳み傘でお気に入りだ。でも少し小さめで腕や足元が濡れてしまうのが難点だった。可愛いしお気に入りだけど、制服が濡れちゃうのは嫌だ。
だから放課後、教室に残って勉強しながら雨が止むのを待とうと考えたのだ。
SHRを終えて清掃班ではない部活組が駆け足で教室を出た。清掃班は週替わりで回ってきて、今週は私のいる班だった。出席番号順に振り分けられているから、席替えしてもメンバーは変わらない。
机と椅子を動かしながら埃を掃いていく。早く終わらせたいという部活組からの圧が強いので、終始無言だ。三十人程度の教室は、たった五人の生徒であっという間に綺麗になった。
教室掃除は床の掃き掃除しか言われていない。一応机の上を雑巾で拭いているけど、五人分の箒がなくて、手持ち無沙汰の私が何となく罪滅ぼしでやっているだけだ。それもあっという間に終わってしまった。
水洗い場で雑巾を洗って教室に戻ると、ちょうどゴミ捨てする人を決めているところだった。皆真剣にジャンケンに挑んでいるけど、あいこが続いているようだ。
「ゴミ捨て、私行くよ」
私は手を挙げて大きく声を出した。ジャンケンをしていた四人が一斉にこちらを向く。四人のうち、松本さんが口をすぼめながら話し始めた。
「そう言って昨日も一昨日も三波さんが行ってた」
「私部活ないし、他にやることないし。全然気にしないけど」
「私たちは気にするの!」
松本さんの言葉に各々頷いていた。私は肩をすくめた。部活に入ってないし、バイトも先月で辞めてしまったから放課後暇なのは本当である。でも四人は、特に言い出しっぺっぽい松本さんは納得しないのだろう。
「じゃあゴミ箱二つあるから、一つは私。あとの一つを誰か手伝ってくれる?」
「えー! しょうがないからそれで妥協してあげる」
松本さんは不満そうな声を上げたが、今日のところは納得してくれたようだ。
ゴミ捨て場は校庭からも校舎からも体育館からも離れた場所にあるから、部活組は大抵面倒臭がる。去年のクラスは正にそうだった。私はバイトの日だけ時間に追われていたから逃してもらえた。けど基本部活に入っていない子が班とか当番とか関係なく手伝っていた。
今年のクラスは責任感の強い子が揃っている。部活も行きたいけど掃除も大事。面倒臭いことも決まりだからやる。去年のクラスメイトに見習ってほしいくらいだ。
果たしてジャンケンの勝敗はついた。唯一パーで負けてしまった武藤くんとゴミ箱を持って教室を出た。松本さんを含む他のメンバーは部活へ向かった。「明日は二人免除だから!」という声には曖昧に笑って誤魔化した。
こうして武藤くんと並んで歩くと、少し緊張してしまう。武藤くんとは去年も同じクラスだった。長い前髪で顔半分くらい隠れていて、常に俯いている印象だった。特別何か会話があったわけでもなく、ただのクラスメイトに過ぎなかった。
そんな武藤くんに最近何か心境の変化でもあったのだろう。ある日突然前髪が短くなった。さっぱりと整った髪型は、武藤くんの可愛らしい顔立ちをより引き立てていた。アイドル顔負けのイケメンで私はビックリした。これはすぐにモテるだろうなって思った。何なら今、隣を歩いていてドキドキしてしまう理由もここにあると思う。
「あ、雨だった」
「あ、傘」
昇降口に着いて傘を持っていないことに気がついた。私は教室に戻れば折り畳み傘があるけれど、今から戻るのも時間がかかってしまう。
濡れないように靴を履き替えてゴミ箱を持った。武藤くんも同じ考えなのか、黒に白と赤のラインが入ったスニーカーに履き替えていた。
「いく?」
「いける?」
お互いに空を睨みつけながら言葉を交わした。雨は小雨よりも霧雨に近いほど、細かく降っている。傘を差すか迷うくらいの雨だ。
私たちは何の掛け声もなく、でも同時に走り出した。走るとより冷たい雨を感じる。
ほんの数秒、息が上がる前にゴミ捨て場に着いた。屋根がついているところまで駆け込んだ。髪の毛が思ったより湿ってしまったかもしれない。でももしかしたらすぐ雨足が強くなるかもしれないからゆっくりはしていられない。
ゴミ箱を空にしたら、そそくさとその場を離れた。行きと同じく駆け足だ。後ろから武藤くんも着いてきている。行きより早く、昇降口に着いた。短距離とはいえ全力疾走したためか、私は肩で息をしていた。
「あー! 疲れた!」
思わず声を上げた私に、武藤くんはビクッと体を震わせた。驚かせてしまったようだ。謝ったら少し笑われてしまった。笑った顔を初めて見たからドギマギしてしまったのは内緒だ。
靴を履き替え、教室へ向かった。武藤くんは息が上がっていないようだ。平然と階段を登って私の先にいる。私もなんとか登りきって、武藤くんの後を駆け足で追った。
教室に戻ると、一人だけポツンと残っている人がいた。
坂本さんが、机の上に鞄を置いてスマホを見ていた。バタバタ入ってきた私たちに気がついて顔を上げた。私は何となく目を逸らしてしまった。
坂本さんは少し苦手だ。勉強も運動もできて、私のような暗くて大人しい人間にも明るく声をかけてくれる。優しくて良い人なんだけど、私の周りにはいない人柄だからどう接していいか分からないのだ。
「掃除お疲れ様」
坂本さんは案の定、私に声を掛けてくれた。それに対して頷くので精一杯だった。でも坂本さんが気を悪くした様子はない。
何か話題を振った方がいいのだろうか。そんなトーク力私にはない。どんなことなら聞いてもいいかなんて匙加減がわからない。
私の思考とは別に、勝手に口が動いていた。
「どうして残ってるの?」
発言した後、やってしまったと思った。さすがに言い方がキツいような気がする。
坂本さんは怒るでもなく、スマホで口元を覆いながら首を傾げた。
「ちょっとやることあって、その後スマホいじってたら遅くなっちゃったんだよね」
でもそろそろ帰るよ、と坂本さんは鞄を肩に背負った。手には折り畳みの傘がある。ピンク色に白のリボン柄がプリントされているソレは、女の子らしい坂本さんにピッタリだった。
「三波さんは?」
「私は、傘忘れちゃったから少し教室で待とうかなって。夕方には止むらしいし」
「そっか、じゃあ帰る時は気をつけてね」
バイバイ、と手を振る坂本さんに私も振り返した。坂本さんが教室を出て、どっと疲れが出た。私、ちゃんと話せていただろうか。日本語でやりとりできただろうか。変な子だと思われなかっただろうか。ヒヤヒヤしながら私の席に着いた。座ってやっと一息つけた。
そういえばいつの間にか武藤くんがいなくなっていた。教室を見渡しても、私一人しかいない。さっきまで青春の一ページっぽいことを一緒にしたのに。でも武藤くんらしいとも思った。距離を縮めるには先は長そう。
勉強なんてする気が起きなくて、頬杖をつきながら窓の外を見た。教室の窓からは校庭と、その奥にある校門が見える。傘を差して下校する生徒たちを眺めていたら、とある二人組が目に留まった。
一本の透明なビニール傘に入る男女二人組。どこにでもいるカップル。雨に濡れてよく見えないが、女の子の後ろ姿が坂本さんにそっくりだった。手に持っているピンク色の折り畳み傘も似ているから、多分間違いない。
坂本さん、付き合っている人いたんだ。
クラスメイトの意外な一面を目の当たりにしたようで、少し戸惑った。でも同時に納得した。坂本さんのような女の子ならすぐに彼氏ができそうだからだ。
隣に並んで歩く男子は誰だろうか。目を凝らしていると、不意に二人が向き合った。変わらずビニール傘は水滴で曇って見にくいけれど、その横顔にあっと声を漏らした。
武藤くんだ。さっきゴミ捨てに行った時と同じ靴を履いている。
さっきまで武藤くんに対してドキドキしていたはずの心がスッと冷えた。なんだ、二人で付き合っていたのか。明るい坂本さんと引っ込み思案の武藤くん。なんだかチグハグな組み合わせに思える。
改めて二人の姿を捉えた。そこでようやく傘が坂本さん側に傾いていることに気がついた。武藤くんの肩から鞄が少し濡れてしまっているが、気にしてない様子だった。歩くペースを坂本さんに合わせたり、水たまりを避けるために腕を引いたり。武藤くんは、坂本さんをよく見ていた。
どっからどう見てもお似合いだった。
「何もなかった」
一人ぽつりと呟いた言葉は、教室に溶けていった。
何もなかった。ときめいたことも、浮ついた心も。恋未満だったこの気持ちは、最初から存在しなかった。そう言い聞かせるしかなかった。
どんよりした曇り空を見上げた。ところどころ光が差し込んできている。もうすぐ雨は止むらしい。私は見ないふりをして、机にうつ伏せた。止んでもすぐには下校できそうになかった。
『ところにより雨』
隣を歩く友達も
今すれ違った知らない人も
電車の中で物静かに過ごす人も
騒がしくて態度の悪い人も
店員にいちゃもんをつけるお客さんも
平謝りで落ち込む店員も
キツい物言いしかできない上司も
器用にサボって知らんぷりする部下も
他人に威張り散らしている可哀想な人も
他人に謙ってなめられる優しい人も
ニュースで取り上げられた事件の被害者も
無事逮捕された被疑者も
表舞台で華々しく活躍するスターも
陰で人々の生活を支えている仕事人も
私も
君も
きっと誰かの特別な存在
『特別な存在』
散々大口叩いて
到底叶いそうもない夢を語って
バカにされても諦めなくて
周囲の視線を顧みることなく
誰よりも真っ直ぐに努力し続けて
結果誰よりも成功しているんだもの
本当に嫌になっちゃう
あなたを信じきれなかった私のことが
見る目がなかったんだと嫌になる
理由もなく散々バカにしてきたけど
今ならわかる
ただ前しか見てないあなたが羨ましかった
私の方が馬鹿だった
本当にごめんなさい
『バカみたい』
人々が争い、血が流れ。
大地が怒り、全てが飲み込まれ。
成れの果てとなったこの土地は、かつて世界屈指の巨大都市と呼ばれていたそうだ。今では一面更地で、人の痕跡をかき消すほど自然に覆われている。
この土地の唯一の生き残りだろうと、僕たちは自覚があった。
他の生物に襲われないように、息を潜めてこれまで生きてきた。悲しいことや情けないことなど醜態はお互いに晒した。それでも尚、慰めて、励まして、愛し合ってきた。たった二人ぼっちの、人間だ。
他の生物が寝静まった頃、僕たちは地面に隣り合って寝転がった。目の前には満天の星が広がっている。
君が言う。
「生き残りがあなたでよかった」
僕は、返す言葉が出てこなくて、代わりに君の手を握った。
「何もかも失くしたけれど、あなたがいたから生きられた」
「僕もだよ」
「辛くて、寂しくて、悲しくて。どうしようもなかったけれど、あなたとの日々は毎日が発見で、とても楽しかった」
君が僕の手を握り返した。僕はたまらない愛おしさゆえに、衝動的に君を抱きしめた。
「愛してる」
「僕も愛してる」
君の腕が僕の背に回った。より距離が近づいた。
僕は静かに目を閉じた。腕の中で彼女の体温が感じられない。その事実に目を背けたくて、固く閉じた。堪えきれなかった涙が、顔を伝って大地に流れた。
次に日が昇ったら、僕は一人ぼっちになる。
『二人ぼっち』
あなたとの日々は、まるで夢のように幸せだった。
桜満開の暖かな春の日。新入社員として入社した企業で、あなたと出会った。あなたは私が最初に配属された部署の上司だった。
他の先輩から仕事を教わることが多かったけど、会話がないわけではなかった。同じ部署に同期はもう二人いた。でも三人の中では一番気にかけてもらえた。挨拶をすれば少し立ち止まって言葉を交わしたり、業務の報告をすると労ってもらえた。取引先との大事な商談でミスをしてしまった時は、さすがに叱咤されたけれど、同時に激励もされた。私はまだこの仕事を続けていこうと前を向けた。
私たちの距離が縮まったのは、他部署と合同で開催されたクリスマス会兼忘年会だと思っている。
規模があまりにも大きいため、参加人数も多かった。あなたは遠くの上座にいて、私は下座で皿下げや注文の品などの手配をしていた。飲み会の最中、あなたがわざわざ私の元にやってきてくれた。グラスのビールがかなり減っていたから、私が畏れ多くも注いでしまった。あなたはとても美味しそうに口をつけた。
部下に慕われているあなたは、またすぐに別の席へ呼ばれてしまったけれど、立ち去る前に私に声を掛けてくれた。
「入社してきてくれて、本当に助かっています。日頃の感謝も込めた会だから、お好きに飲み食いしてください」
正直あなたに感謝されるような仕事ぶりではなかったけれど、私自身の存在を認められたような気がした。とても嬉しくて、その日は感激のあまり一晩寝られそうになかった。
その後すぐ部署異動で私は他所へ配属されてしまった。あなたと共に仕事ができないだなんて絶望した。何度も訴えかけたけれど覆ることはなく、私は内示が出てからずっと落ち込んでいた。
そんな私を慰めてくれたのも、あなただった。
「部署が違えど、私たちの仕事はどこかで必ず繋がっていますから。あなたの働きぶりが私たちに還元されますし、逆のこともあります。同じ会社で仕事をするってそういうことでしょう?」
あなたの意見はごもっともだった。
たとえ部署が違っていても、同じ会社ならば向かう先は一緒である。この会社にいる限り、あなたと仕事はできる。そばにはいられず、間接的ではあるけれど。
なぜ私はそのことに気が付かなかったのだろう。あまりの恥ずかしさに顔を見られたくなくて、頷き俯いた。あなたは私の肩をトンと叩いた。
「大丈夫、あなたならどこへ行っても活躍できます」
弾んだような声に、少し目線を上げた。あなたは私に微笑みかけてくれていた。美しくも儚いその表情が、今も頭から離れない。
その表情に泥がついたのは、配属先の別の上司からの一言だった。
「あの子、今度結婚するんだって」
私は、その言葉を理解するのに時間が掛かった。その間にも、ペラペラと詳細が語られた。大学時代からお付き合いしていた恋人がいたこと。半同棲状態なこと。職種や業界は異なるが、仕事のできる朗らかな人らしいこと。
「ウチの年、同期の仲が良くてしょっちゅう飲み会してるからか呼ばれたんだよね。まぁ会社代表みたいなもんだけど」
心から祝福しているような笑みを浮かべていた。私は相槌を打つ一方で、腑が煮え返っていた。表情には出していないが、目の前は真っ赤に染まっていた。
部署が変わっても廊下ですれ違えば会話をした。お昼休みが被れば社員食堂でそばに座った。相談に乗ってもらったこともある。それを繰り返せば、いつの間にか距離は縮まっているものだと思っていた。
でも私は式には呼ばれていない。しかも本人から直接報告を受けていない。
あぁ、裏切られたんだと思った。
大安吉日の日曜日。暖かく、憎らしいほど快晴の空の下。あなたは式場の庭で談笑していた。今時はカジュアルに式を楽しめるよう、ガーデンパーティーにする例も多いらしい。
口の軽い今の上司は、日時や場所についても話してきた。そこである一つの案が浮かんだ。招待されてないが、されてないなりに花を添えたって構わないだろう。
この式場はガーデンと言っても整備された花々が並んでいるだけで、特別自然に囲まれているわけではない。周りを囲う柵も高くない。道路に面しているから、覗こうと思えばいくらでも覗ける。
中の様子を伺うと、皆笑顔だった。花嫁花婿も、親族らしき人たちも、友人知人やスタッフまでも。人生で一番幸福なひと時が、そこにあった。
許せなかった、どうしても。
私を裏切っておきながらあなただけ幸せになることが。
だから私は、手にした遊び道具を握りしめた。あなたに花を添えるための道具だ。標的はもちろん決まっている。
パンッと本物のような音がした。でも威力は十分だった。あなたの肌に傷がついたことを確認した。
あなたは結婚相手だろう人に支えられつつも、地面に倒れた。必死の呼びかけにも答えられないようだ。痛いのだろうか、目を瞑っている。
「誰だ!!」
その場にいた参列者やスタッフがこちらに向かってきた。私は逃げずにその場に立っていた。
誰かが私の片腕を捻った。道具を持っている方だった。そのまま地面へ薙ぎ倒される。外野が何か喚いているが耳に入ってこない。私の視線はずっとあなたを追っていた。
あぁ、その白には赤が似合う。
私の隣で白いドレスを着れば、赤く染まらなかったのに。
『夢が醒める前に』