テーマ『絆』
いつも『見捨てられる』って思ってた。けど実際、私が見捨てられなかったのも事実なんだ。
絆。このテーマを見て、まず最初に頭に浮かんだのは「物語」だった。
これまで読んできた本には、たくさんの絆があった。コンプレックスを受け入れながら、協力して何かに立ち向かう『絆』。喧嘩をしてぶつかり合いながら、悲しみを乗り越えていく『絆』。満たされた者と飢えた者が出会い、互いに惹かれ合うなかで生まれた『絆』。
思いつくものはどれもキラキラしてて、彫刻品みたいに緻密なイメージがあって、私には書けそうにないなって。……正直、気後れしてしまう。
だから、物語を書くのは諦めた。いや、いつかは書くかもしれないけど、今日は自分の内面を覗くことにする。
絆という言葉が現実にあるとしたら、やっぱりいちばん身近なのは家族だろう。
冒頭に書いた通り、私には『見捨てられるんじゃないか』って不安が常にあった。その感情が辛くて、色々と本とかインターネットで調べた。
色んな人の色んな意見があった。そのなかで、あーでもない、こーでもないって考えて、いくつか自分に合う考え方を見つけてきたつもりだ。
例えば、自分の感情を素直に感じること。怖かったり不安になったりすることがあっても、自分のなかで「あぁ、自分は怖いんだな。不安なんだな」って認める事ができれば、それだけでだいぶ違う感じがした。
そのために大切なのは「自分の素直な気持ちを出しても平気な相手を見つけること」だった。
幸いなことに、僕はそういう相手に出会えた。最初から素直に気持ちを出せるわけじゃなかったけど、お互いに少しずつコミュニケーションを重ねていって、そういう関係になれた気がする。
別に、心理学講座をやりたいわけじゃないんだ。ただ、私のなかにある「絆」っていうのは、物語みたいにキラキラしてるわけじゃないなって、ふと思った。
家族に対しては、今でも「あぁ、この部分は分かりあえないんだな」っていう悲しさがある。
けれど「この部分は分かりあえなかったけど、こっちのここは楽しかったな」っていうのが、以前に比べたら多少は認められるようになってきた。
……気がしてる。
それだって、絆なんだなって。今日のテーマをみて、気づくことができた。
もちろん、素直に感情をやりとりできることも絆だと思う。
素直に感情を表せるっていう意味では、この「書いて」のアプリだって、絆なのかもしれない。
その日思いついたことを文字として昇華していくことが、なんだか最近楽しくなってきているんだ。
これからも、思いついたことを小説なり、こういう日記的なカタチなんかで書いていこうと思う。
本音を言えば毎日、誰かに楽しんでもらえる物語を書けたら理想なんだけど。……まぁ、こんな日もあるよねってことで。
(「絆」をテーマにした小説を書くなら、人間とロボットの友情物語なんていいなって、ぼんやりと妄想してました。妄想だけで止まっちゃうこと、たくさんあるよね笑)。
テーマ『たまには』
晴れた春の陽気。たまには、いつもと違う道を散歩してみたくなる。
大通りを右に曲がって、民家の並ぶ小道をまっすぐ進んでみた。
名前も知らない酒造会社、小さな電気屋さん。
ユニークな名前のアパートメントに、昔ながらの古民家食堂。
知らない建物だらけのこの道で、顔も知らないたくさんの人たちが暮らしている。
私の住む世界は、とても狭くて小さいんだなって思った。
思い切り、飛び出すのもいいかもしれない。
怖いなら、つま先だけちょこっと出してみようかな。
今日、いつもと違う景色を見た私は。
ほんの少しだけ、外の世界の探検家だった。
テーマ『大好きな君に』
私はずっと、君が大嫌いだった。
全然、私の理想通りの君じゃないんだもん。
他の子みたいに運動ができるわけでもない。スタイルが良いわけでもない。特別に何かが得意っていうことでもなくて、ただそこらへんにいる一人の人間。
そんな君のことが、私は心の底から大大大嫌いだった。
もっと、誰かに愛されるような人間だったら良かった。
もっと器量がよくて、可愛くて、みんなにキャーキャー言われるような。
そんなキラキラした子だったら良かったのに。
なのに、君はそうなってくれなかった。ただ私のそばに立っていて、ずっと私のことを見つめて、ただ静かに首を振っているだけ。
……ホント、訳わかんない。黙ってたって、何もわからないのに。
もっと喋れよ。私が君を否定したら、「嫌だ」とか「うるさい」とか、抵抗してみろよ。
私は何度も何度も君を突き飛ばした。殴ったり、蹴ったりして、たくさんたくさん君を傷つけた。
それでも君は、ただ黙って首を横に振った。そして、何でもないふうにこう言うんだ。
『あなたの本当の気持ちは、それじゃないでしょう?』
──なんでだろう。君のその言葉に、私の目から涙が溢れ出た。
胸が痛い。君のことを傷つけてもなにも感じなかった胸が、今更になってズキズキと痛みだす。
本当の気持ちって、なんだよ。ただ黙ってるだけのくせして、知ったかぶりするんじゃねぇよ!
叫んでも、胸にぽっかりと空いた虚しさが消えない。
また、いつもみたいに殴りたくなった。けれど、右手がちっともいうことを聞いてくれない。
『いくら痛めつけても、あなたが望むものは得られないよ』
そう語りかける君の悲しい視線が、私の心を覗き込んでくる。
『さあ、言葉に出して。あなたが本当に欲しかったものはなに?』
「そんなの、分かんないよ」
うつむく私に、君は追い打ちをかけるように言葉を重ねた。
『いいや、あなたはもう分かってる。どうして、キラキラしてなきゃいけなかったの。どうして、誰かに称賛されなきゃいけなかったの』
「そんなの、優秀な方がいいに決まってるからじゃない」
『優秀だと、なんでいいの』
「それは、常識的に考えたらそうなるじゃない」
『それならどうして、あなたはワタシをそんなに傷つけたがるの』
「それはッ……あんたが、私の望むようにならないからでしょ!?」
今度こそ右手を振り上げた。しかし、あっけなく受け止められてしまう。思えばこれが、君が私にした初めての抵抗だった。
『違う。あなたは、愛されたかったんだ。自分のすべてを否定して、本来の自分を捻じ曲げてでも。君は、君の親や周囲の人間に愛されたかったんだよ』
その言葉を聞いて、私の全身からぱたりと力が抜けた。
崩れ落ちた私を抱きとめる君は、これまで見たことのないくらい優しい表情を浮かべている。
「……なんで、そんなに優しい表情でいられるの。私はこれまで、散々君を傷つけてきたのに」
『嫌いになんてなれるわけないよ。……だって、ワタシはあなたが生まれた瞬間から、あなたのことが大大大好きなんだもの』
私を抱きしめる君の腕は温かくて、なんだかとても安心する。
乾いていた涙がまた、ぽつりぽつりと頬を伝って流れ落ちた。
「……私、なんの取り柄もないんだよ」
『そんなことはない。あなたが生きていてくれるだけで、ワタシはとても嬉しいんだ』
「頭だってそんなによくないし、他の人より仕事だって遅い」
『人それぞれのテンポがあるんだ。あなたはあなたのペースで、精一杯生きていけばいいじゃない』
「いい成績を取ったり、リーダーの役割にならないと……私の両親は、私を褒めてくれなかった!」
まさか、ここで親への不満が出てくるとは思わなかった。
私の両親はお金に不自由しないように養ってくれて、毎日生活のこともやってくれて、感謝している。……そんなお父さんとお母さんのことを悪く言うなんて、私はなんて親不孝なんだろう。
叱られると思って、私は思わず首をすくめた。
『そうだね、辛かったよね。……これからは、ワタシだけが知ってるあなたのいいところ、たくさん褒めてあげるからね』
君は、そう言って私の頭を優しく撫でてくれる。
「……なんで。私のこと、叱らないの?」
『どんなことであれ、あなたが感じたことをワタシは否定したりしないよ。親への感謝もある。けれど、もっと褒めてもらいたかったっていう不満もある。それでいいんだよ。親に褒めてもらえなかったぶん、これからたくさん褒めてあげようね』
よく見ると、君の腕や頬、体中は酷く傷だらけになっている。
その全てが自分のせいだと気づいたとき、私の胸の中で重い罪悪感が膨らんでいった。
「……たくさん乱暴して、酷いこと言って、傷つけて。……ごめんなさい」
『大丈夫だよ。あなただって苦しかったよね。よく耐えたよね。えらい、えらい──』
急激に眠気が襲ってきて、私は心地よいまどろみの中に落ちていく。
『いつだってワタシは、あなたの味方だからね』
最後に聞こえた君の声は、私の胸にいつまでも響いていた。
──小鳥の鳴き声が聞こえる。カーテンを開け、私は窓に降りそそぐ陽の光を全身に浴びた。
いつも気だるい朝なのに、今日は珍しく寝起きがいい。
夢の内容はあまり覚えていないが、なんとなく体の奥底から力がみなぎってくる気がした。
「……おはよう、わたし」
鏡に映った自分の姿に、私はにこりと微笑みかけた。
テーマ『ひなまつり』
私が前の持ち主に捨てられたのは、三ヶ月くらい前のことだった。
たくさんの人が行き交う街には、きらびやかな光と、鈴の音のBGMが鳴り響いている。アナウンスで何度も流れる『メリークリスマス』という言葉から、今日が特別な日なのだと知っていた。
女の子を模した人形である私は、持ち主の女の子に置いてけぼりにされ、街角で途方に暮れていた。
ショーウインドウに並ぶサンタさんに目を奪われ、まだ幼い彼女は、私の胴体を持つ手をパッと離してしまったのだ。
人形が落ちたことに気づかずに行ってしまった彼らが、そのうち迎えに来てくれるんじゃないかと、私は胸に希望を抱いていた。……しかし女の子の家族は、いつまで経っても私を見つけに来てくれることはなかった。
月日が経ち、私は誰に拾われることもなく冷たいアスファルトに座っていた。
女の子の姿を探すのは、もう諦めた。汚くなった私を一瞥する視線にも慣れてしまって、もう、何もかもがどうでもいい。投げやりになった私の前で、ただ時間だけが淡々と過ぎ去っていく。
それは、雪のふる寒い早朝のことだった。古びてボロボロの服を着たおじいさんが、突然目の前にしゃがんで私を持ち上げた。
おじいさんは、これまで見た誰よりも薄汚れていた。顔は垢に塗れ、歯は黄色く変色している。体からは何ともいえない匂いがしていて、私は思わず顔を背けたくなった。
「おやおや、こんな寒いところに独りぼっちで。……あんた、寂しかったろう」
彼の言葉を聞いて、私はさっきまで自分の頭に浮かんだ考えを恥じた。
どう考えても、寒いのは彼の方だ。破れた靴からは素足が見えているし、服は薄いシャツと上着だけで、マフラーや手袋だってしていない。そんな状態なのに、なんでこの人は人形である私を気遣うのだろう。……別に、人形である私は寒さなんて感じないのに。
おじいさんに拾われた私は、少し離れた場所にある河原へと連れて行かれた。
川のそばにはダンボールで作られた小屋が建っている。川辺にはおじいさんと同い年くらいのおばあさんが座り、使い古した鍋で何かを焚き火にくべていた。
「よぉ、ばあさん。今日は家族が増えたよ」
そう言って、おじいさんはおばあさんの手をとり、彼女の手の中にそっと私を置いた。
両手で包み込むようにしながら、彼女は焚き火の明かりに近づいて私を見る。
「あら……まぁ、なんてかわいいお人形さんなんでしょう!」
薄汚れた私をみて、おばあさんは満面の笑みを浮かべた。おじいさんと同じくらい汚れていた彼女けれど、その表情は前の持ち主だった女の子よりも、ずっとずっと純粋で、かわいらしく思えた。
もう、私は誰にも必要とされない。そう思っていたのに、また誰かを喜ばせることができて、私は心の底からとても満たされていた。
それからしばらく、私は二人と一緒に生活をした。
立派なお家で暮らしていた頃とは、全くかけ離れた日常だった。それでも私は、おじいさんとおばあさんと過ごす今が、心の底から楽しかった。私はいつでも彼女の近くにいられて、とても大切に扱ってもらえた。
喋れない人形の私を、二人はいつでも優しい瞳で見つめて話しかけてくれる。時々、私はまるで本当に人間になったかのような、そんな不思議な気持ちにさえなった。
春も近いというのに、ここ数日は真冬のような寒さが続いていた。異例の猛吹雪が続き、二人は来る日も来る日も身を寄せ合って耐え忍んだ。とても辛そうにしている彼らを見て、私は人形ながらに胸を痛めた。
ようやく吹雪が収まったある日。朝起きると、私の横で寝ているおばあさんが、胸を押さえて苦しそうにうめいていた。
「おいっ、大丈夫か!?」
おばあさんの側に寄り、おじいさんが緊迫した面持ちで話しかける。
「あなた……ごめんねぇ」
「今……今ッ、誰か助けを呼んでくる!」
そう言って、おじいさんは小屋の外へと飛び出していった。
「あのね……持病なのよ。心臓の病気」
彼女は私のことをそっと胸に抱きながら、か細い声で話し始めた。
「あの人の……旦那の会社が倒産してね。資産も部下の給料に全部回しちゃって。さらには、稼ぎも身寄りもない私なんて置いていけばいいのに、こうやって一緒に暮らして。本当に、優しすぎるんだよあの人は。……だからね、あなた、一緒にいてあげてほしいんだよ。私のかわりに、あの人の側に……いてあげ、て……」
言い終わった途端、おばあさんの体から力が抜ける。
その時だった。突風が吹いて、小屋の屋根が半分外れた。空いた屋根の隙間から、黒い猫がしゅるりと入ってきて私の方を向く。
『お前は、その人間を助けたいのか』
普通、猫は喋らないものだと思っていたので、私はとても驚いた。
尋ねたいことは山ほどあったが、今はそれどころではない。私はコクリと頷き、心のなかで強く念じた。
『彼女を助ける方法があるなら、何でもやるわ』
『何でも……か。よろしい。ならば、お前が彼女に宿る病の依代となれ』
猫は私の着ている洋服の端を咥え、軽い身のこなしで川辺へ出る。そのまま私は、増水した川の流れの中へポイッと放り投げられてしまった。
──さよなら。おばあさん、おじいさん。今までありがとう。
短い間だったけど、楽しかった思いでが脳裏に蘇る。
ぽちゃんと水に落ちる音がして、私は冷たい川の中で深い眠りについた。
今日が炊き出しの日で助かった。
ボランティアの人達に事情を話し、僕は妻の横たわるダンボール小屋へと数人を連れて戻ってきました。
「依子……依子! 大丈夫か!?」
慌てて駆け寄りますと、さっきまであんなに苦しそうにしていた妻の呼吸が、いつも通りの安らかなものに変わっているではありませんか。
そしてふと、一つの違和感に気が付きました。
「依子……お前、あの女の子のお人形。エリちゃんはどうしたんだい」
うーんと言いながら起き上がる妻の周囲には、いくら探してもエリちゃんの姿は見当たりません。
「優一郎さん、あたし、夢を見たのよ。あの子がね、エリちゃんが笑顔で手を振って、『元気でね』って、黒いもやもやと一緒に遠くへ行ってしまう夢。……きっと、私を助けてくれたのよ」
妻の言うことは何とも信じがたいことでした。それでもなんとなく、僕もそんな気持ちがしてきてしまったのです。
「そうか。……依子が言うならきっと、そうなんだねぇ」
妻と二人で手を握りながら、僕たちは心のなかで「ありがとう」と、エリちゃんのあの可愛らしい笑顔を思い浮かべるのでした。
テーマ『たった一つの希望』
『人生なんて、いつだってどん底だ』。彼がこの口癖を言うたび、わたしは「そんな事言わないでよ」と、自分より高い彼の背をパシリと叩きました。
幼くして両親が死に、親戚中をたらい回しにされてきた彼にとって。人生とは、誰とも心を通わせられない寂しい時間なのかもしれない。それでもわたしは、彼に笑ってほしいと願ったのです。
お見合いで結婚し、一緒に暮らし始めた当初。彼の言動の意味が分からず、わたしはいきなり戸惑いの日々を過ごしました。
何が食べたいですか、と聞けば「なんでもいい」。どかたの仕事が終わる時間になってもなかなか帰ってこず、ようやく帰ってきたかと思えば酒に酔って顔が赤くなっている。どこに行ってきたのかと尋ねると「散歩」。
こちらが親睦を深めようとしても、彼の方から避けているように見えました。でも問いただすには、まだ心の距離が遠すぎる。わたしは彼にも何か思うところがあるのだろうと、ひたすらに彼を観察し続けることにしました。
日常生活に会話はほぼありませんでした。必要最低限「醤油を取って」だとか「着替えはどこだ」とか、そういうものばかり。ただ……幸いなことに彼は、表情に出やすいタイプだったわね。
嬉しかったり、少しでも心が上向いた時は、左の眉がピクリと上がるの。
わたしはそれを「眉毛アンテナ」と勝手に名付けて、メモ帳にアンテナの反応を書き記しました。
一ヶ月もすれば、気づけばメモ帳は半分くらい埋まっていて、彼のことも少しずつ分かり始めてきたわ。
まず、好物は白米。試しに水加減をあえて間違えてみたら、明らかに眉毛アンテナがしょぼくれて垂れさがっていたの。もちろん、彼にはアンテナのことは内緒よ。
あと、夕食に肉料理を出すと喜んでいたわね。仕事前に「今日は豚の角煮ですよ」と言った夜は、珍しく酒を飲まずに帰ってきたんだから。
「今日は、散歩はいいんですか」と訊けば「雨が降りそうだったから」と言って、いそいそと作業着を脱ぎ始める。窓の外を覗くのは辞めておいたわ。
そんなこんなで、二人での生活が二ヶ月を過ぎた頃。土曜日の休日。朝の洗濯を終えて、お茶でも飲もうかと台所へ立っていると、彼が来てボソリとこう言ったの。
「……散歩、行かないか」。
突然のことで、わたしはあんぐり口を開けてその場で固まったわ。すると彼は、わたしの方を見ながらフッと笑って「のどちんこ、見えてる」ですって。
赤面するわたしに、彼はまたフフッと笑いながら「外で待ってる」と台所を出て行ってしまった。
彼の生い立ちを聞いたのは、この日の散歩で一休みしたベンチでのことでした。
何も言わないのに徐々に自分の好物を覚えていく嫁に対して、『こいつに隠し事はできない』と思ったらしいのね。
「妖怪悟りみたいだ」と言われたから、「そんなわけないでしょう」とむくれると、今度は「失敬、ふぐのお化けだったか」と茶化される。
どうしようもなくなったわたしは、ついに吹き出して笑ってしまった。つられて彼も笑ってた。
あなたが初めてクシャリと笑ったのを見て。……わたしはとても、満ち足りた気持ちだったのよ。
──昨日のように思い起こされる日々。しわしわになって細くなった旦那の手を握りながら、わたしは「あんなこともあったわね」、「こんなこともあったわね」と、意識も朧気な彼にずっと、何時間も語り続けました。
時々、眉毛アンテナがピクリと反応する……気がするのは、わたしの目の錯覚かしら。
最期は住み慣れた自宅がいいと、老いてから彼は度々言うようになりました。
何か嫌なことがあるたびに言っていた「人生なんて、いつだってどん底だ」という諦めの言葉は、いつの間にか「お願いだ、俺より一日でいいから長く生きてくれ」という願いに変わっていったわね。
「いいですよ」と、わたしは笑顔で応えました。
彼は子供の頃から、たくさん寂しい想いをしてきたんですもの。だから最期くらい、独りになんてしたくないって。そう、思ったんです。
子供には恵まれなかったけれど、わたしはあなたと一緒にいられて幸せです。
もう聞こえないかもしれない彼の耳元で、わたしは何度も何度も囁いたの。
──わたしに、心を開いてくれてありがとう。わたしに、笑いかけてくれてありがとう。わたしと生きてくれて……
不意に、彼の口元がもごもごと動くのが見えました。
「ありが……とう。幸せ、だったよ……」
小さな、小さな声だったけど、わたしには確かに聞こえました。
最後の力を振り絞って、彼はにこりと笑いかけてくれた。
わたしも、彼の手を頬に当てて、視界がにじまないようにぐっとこらえながら
「こちらこそ。……ありがとう」
体温がなくなるまで、わたしはずっと彼の手を握り続けていました。