たかなつぐ

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 テーマ『ひなまつり』

 私が前の持ち主に捨てられたのは、三ヶ月くらい前のことだった。
 たくさんの人が行き交う街には、きらびやかな光と、鈴の音のBGMが鳴り響いている。アナウンスで何度も流れる『メリークリスマス』という言葉から、今日が特別な日なのだと知っていた。
 女の子を模した人形である私は、持ち主の女の子に置いてけぼりにされ、街角で途方に暮れていた。
ショーウインドウに並ぶサンタさんに目を奪われ、まだ幼い彼女は、私の胴体を持つ手をパッと離してしまったのだ。
 人形が落ちたことに気づかずに行ってしまった彼らが、そのうち迎えに来てくれるんじゃないかと、私は胸に希望を抱いていた。……しかし女の子の家族は、いつまで経っても私を見つけに来てくれることはなかった。

 月日が経ち、私は誰に拾われることもなく冷たいアスファルトに座っていた。
 女の子の姿を探すのは、もう諦めた。汚くなった私を一瞥する視線にも慣れてしまって、もう、何もかもがどうでもいい。投げやりになった私の前で、ただ時間だけが淡々と過ぎ去っていく。
 それは、雪のふる寒い早朝のことだった。古びてボロボロの服を着たおじいさんが、突然目の前にしゃがんで私を持ち上げた。
 おじいさんは、これまで見た誰よりも薄汚れていた。顔は垢に塗れ、歯は黄色く変色している。体からは何ともいえない匂いがしていて、私は思わず顔を背けたくなった。
「おやおや、こんな寒いところに独りぼっちで。……あんた、寂しかったろう」
 彼の言葉を聞いて、私はさっきまで自分の頭に浮かんだ考えを恥じた。
 どう考えても、寒いのは彼の方だ。破れた靴からは素足が見えているし、服は薄いシャツと上着だけで、マフラーや手袋だってしていない。そんな状態なのに、なんでこの人は人形である私を気遣うのだろう。……別に、人形である私は寒さなんて感じないのに。
 おじいさんに拾われた私は、少し離れた場所にある河原へと連れて行かれた。
川のそばにはダンボールで作られた小屋が建っている。川辺にはおじいさんと同い年くらいのおばあさんが座り、使い古した鍋で何かを焚き火にくべていた。
「よぉ、ばあさん。今日は家族が増えたよ」
 そう言って、おじいさんはおばあさんの手をとり、彼女の手の中にそっと私を置いた。
 両手で包み込むようにしながら、彼女は焚き火の明かりに近づいて私を見る。
「あら……まぁ、なんてかわいいお人形さんなんでしょう!」
 薄汚れた私をみて、おばあさんは満面の笑みを浮かべた。おじいさんと同じくらい汚れていた彼女けれど、その表情は前の持ち主だった女の子よりも、ずっとずっと純粋で、かわいらしく思えた。
 もう、私は誰にも必要とされない。そう思っていたのに、また誰かを喜ばせることができて、私は心の底からとても満たされていた。
 
 それからしばらく、私は二人と一緒に生活をした。
 立派なお家で暮らしていた頃とは、全くかけ離れた日常だった。それでも私は、おじいさんとおばあさんと過ごす今が、心の底から楽しかった。私はいつでも彼女の近くにいられて、とても大切に扱ってもらえた。
 喋れない人形の私を、二人はいつでも優しい瞳で見つめて話しかけてくれる。時々、私はまるで本当に人間になったかのような、そんな不思議な気持ちにさえなった。

 春も近いというのに、ここ数日は真冬のような寒さが続いていた。異例の猛吹雪が続き、二人は来る日も来る日も身を寄せ合って耐え忍んだ。とても辛そうにしている彼らを見て、私は人形ながらに胸を痛めた。
 ようやく吹雪が収まったある日。朝起きると、私の横で寝ているおばあさんが、胸を押さえて苦しそうにうめいていた。
「おいっ、大丈夫か!?」
 おばあさんの側に寄り、おじいさんが緊迫した面持ちで話しかける。
「あなた……ごめんねぇ」
「今……今ッ、誰か助けを呼んでくる!」
 そう言って、おじいさんは小屋の外へと飛び出していった。
「あのね……持病なのよ。心臓の病気」
 彼女は私のことをそっと胸に抱きながら、か細い声で話し始めた。
「あの人の……旦那の会社が倒産してね。資産も部下の給料に全部回しちゃって。さらには、稼ぎも身寄りもない私なんて置いていけばいいのに、こうやって一緒に暮らして。本当に、優しすぎるんだよあの人は。……だからね、あなた、一緒にいてあげてほしいんだよ。私のかわりに、あの人の側に……いてあげ、て……」
 言い終わった途端、おばあさんの体から力が抜ける。
 その時だった。突風が吹いて、小屋の屋根が半分外れた。空いた屋根の隙間から、黒い猫がしゅるりと入ってきて私の方を向く。
『お前は、その人間を助けたいのか』
 普通、猫は喋らないものだと思っていたので、私はとても驚いた。
 尋ねたいことは山ほどあったが、今はそれどころではない。私はコクリと頷き、心のなかで強く念じた。
『彼女を助ける方法があるなら、何でもやるわ』
『何でも……か。よろしい。ならば、お前が彼女に宿る病の依代となれ』
 猫は私の着ている洋服の端を咥え、軽い身のこなしで川辺へ出る。そのまま私は、増水した川の流れの中へポイッと放り投げられてしまった。
 ──さよなら。おばあさん、おじいさん。今までありがとう。
 短い間だったけど、楽しかった思いでが脳裏に蘇る。
 ぽちゃんと水に落ちる音がして、私は冷たい川の中で深い眠りについた。

 今日が炊き出しの日で助かった。
 ボランティアの人達に事情を話し、僕は妻の横たわるダンボール小屋へと数人を連れて戻ってきました。
「依子……依子! 大丈夫か!?」
 慌てて駆け寄りますと、さっきまであんなに苦しそうにしていた妻の呼吸が、いつも通りの安らかなものに変わっているではありませんか。
 そしてふと、一つの違和感に気が付きました。
「依子……お前、あの女の子のお人形。エリちゃんはどうしたんだい」
 うーんと言いながら起き上がる妻の周囲には、いくら探してもエリちゃんの姿は見当たりません。
「優一郎さん、あたし、夢を見たのよ。あの子がね、エリちゃんが笑顔で手を振って、『元気でね』って、黒いもやもやと一緒に遠くへ行ってしまう夢。……きっと、私を助けてくれたのよ」
 妻の言うことは何とも信じがたいことでした。それでもなんとなく、僕もそんな気持ちがしてきてしまったのです。
「そうか。……依子が言うならきっと、そうなんだねぇ」
 妻と二人で手を握りながら、僕たちは心のなかで「ありがとう」と、エリちゃんのあの可愛らしい笑顔を思い浮かべるのでした。

3/3/2023, 1:53:48 PM