歯牙ない読者

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3/23/2024, 11:59:21 PM

 元来、私は他者の目を気にする気質があるようだ。今迄、どうして、その事に気がつかなかったのだろうか。思い返せば、幼少の時分は、まるで反対の性格、言うなれば、稚気溢れる子供の、それ特有の全能感による豪語とか、嫌に声量も態度も大きかった、自己中心的な部分とか、自分の存在意義を他者に示そうと、強引に努めていた時、そう、一切のデリカシーも、マナーも感じとれない所が一際、目立つような、そんな子供だった。にもかかわらず、時の経過と共に現れた、幼少期とは至って系統違いの性情、言わば、自嘲交じりに謙遜したり、人と距離感を置いて、時には交わりを避けたり、他者に与える不快感を忌避するが余り、言葉選びに時間がかかるようになったり…。加えて言えば、詮索される事を酷く嫌うようになり、自己開示が出来ない、つまらない人間になってしまった。
 何が一体、私をこうさせてしまったのだろう。そう考えていたある時、私は、一つの本を手に取って読んでいた。それは、この話とは何ら脈絡のない、確か、日本人の芸術観に関する本だったろうか。表現者は、他者が表現している自己をどう観るのか、というのを強く意識している、というような話だ。その中で、今でも時折、思い出す一文がある。曰く「表現するということは、何らかの意味において自己を見せびらかす事であり、自己顕示の行為である」と。その時、何度かその一文をゆっくりと読み返して、内容を咀嚼していた。何度か読み返すうちに、私はこれを読んでいて、ある一つの疑問が次第に浮かんできた。それは、私の気質についてだった。
 他者との会話の中で、いつも感じられることがあった。それは自分の一つ一つの、綿密な点における仕草や態度、そして、口から出した言葉の効能を気にする事だった。会話している瞬間においては、自分はその一切を気にもとめずに、その人が話している事について、集中していられる。然し、その後に思い返してみると、己の一つ一つの軽はずみな言葉を省みて、つくづく自分の不注意で、半端な不徹底さと、高揚から来る調子の変動によって、失礼な態度に出たり、気が緩んで不躾な仕草をしてしまう事に、幻滅の苦々しさに加えて、恥ずかしさや憤りも感じられた。この事から導き出せるのは、私が後の幻滅を忌避する余りに、今の快い歓びをも避けるようになって、感情を抑制する事に努めた結果が、この気質の正体だった事になる。
 無論、この性情が不幸なものであると、そう言いたい訳では無い。単に、私がこの気質に至るまでの過程に、どのような理由があったのか、それを突き止めたに過ぎず、加えて、それを記録に残しておきたかったという、それだけの話なのである。

12/16/2023, 10:39:59 PM

 私は無意識のうちに、幾度も過去に起きた事柄について、思い返す事がしばしばある。その度に、自身の人格の未熟さを自覚しては悄気返り、嫌悪し、羞恥の挙句に奇声を発するという事が、(これは甚だ情けない事だが)そうせずにはいられない。更に言えば、性(たち)の悪いことに、自身のその一つ一つの所作や行いに、身を以て嫌悪の眼差しを向けているにも拘わらず、その事について何の対応も練らない、無関心でいるその態度にも、憤りにも似た腹立たしさと同時に、果てしない虚しさを渋々と禁じ得ない。
 何時の日か、感情を表に出す事を躊躇うようになった。刹那的な高揚を避け、無感情に努める事が追想癖のある私には、良いように思われた。感情に揺れ動かされ、自身の浅ましい行いの後を振り返る時が、情けなく、恥ずかしいのである。二十歳にもなって、子供のようにガヤガヤとした/血気溢れんばかりの態度は、この歳になっては似つかわしく、寧ろ、味気無い素振りや沈着な態度が相応しいのではないか(無論、そうでない人はそれで良い。寧ろ、そのような性格は尊重されるべきである。何も、二十歳の人間はこうなるべきだとか、私のような人格こそ至高であるとか、そんな事を言いたいのではない。私は、このような性情であるから、上記のような態度こそ、私が以て振る舞うべき態度であろうと、そう思うに過ぎない)。

11/26/2023, 9:09:43 PM

 近頃、私は気付いた事柄があった。其れを今から記していきたい。
 まず、馬鹿にされたくないからといって、尊大な態度をとるべきではない。己の能力・知力・才能の低度を、それによって実際よりも強大なものとして見せるのは、まさに虚勢である。そうするのではなく、まずは己の程度の低さを清く認め、反省するべきである。そして、周囲の人間を認めるべきである。周りが小人だからとて(それが事実、そうだとしても)、彼等を認めるべきだ。確かに、自己よりも卑賎な人間、愚鈍な人間には腰を低くするのが難しい。然し、自己の下らないプライドが邪魔して素直になれないでいるのは、彼等よりも鈍物に過ぎない。他者を馬鹿にして自らを驕るよりも、腰を低くして自らを磨く方が、余程も優れているに違いない。端から相手にしなかった彼等も、自分が知らないだけで、(或る分野においては)誰よりも光るものを持っているのではないか。その事に思い及ぶこと無く、端から相手にしない方が、かっこ悪いのではないか。よく知りもしないで、歯牙にもかけない事を問題にしない方が、目に余るのではないか。
 そしてもう一つ、私は、自分の情けない姿を他者に見せるのを、極度に嫌う傾向があるようだ。そんな人間であるために、心を許せる友人にも(意識的に)見せた事は更々ない(これも傲慢な自負心の所為に違いない)。そんな私が、人が変わったかのように、自身の未熟な箇所を見せることに、躊躇いがなかった事があった。その事についても考え、解った事がある。これは少し具体的な所を触れるのだが、自分が知らない分野を、恰も知っているように振る舞う事がある。「そんな程度で?」と、余り重大に思われないかもしれないが、知らない事を恥ずかしいと思う自分にとっては、恥ずべき点に変わりない(それでいて、不遜な態度をとるものだから、呆れたものなのだが)。このような態度をとっている事こそ、私が最も恥ずべき部分ではないのか?という点である。同じ事の繰り返しとなるが、己の程度を知り、周囲の人間を認め、反省と研鑽の反復をする事こそが、今の自分が為すべき事なのであるように思う。そして、これらの行為を根本から邪魔する、このプライドを捨ててしまうのが、良いのだろう。
 (これは別に読まなくてもいい。
 …人は老いるにつれて、その身に気品を纏うのだが、幼少期から落ち着いた様子でいると、周囲からは子供気のない様に見られるらしい。日が経つにつれて「気品がある」だの、「賢そうに見える」だの、を周囲の人間から言われると、私のように「事実、賢くなければいけない」と呪縛を掛けられてしまうような人もいるのだろうか?)

5/19/2023, 5:10:55 PM

 人間の誰しもが或る一人の人間の死によって、悲痛な思いをすることに余りにも惨(むご)たらしい感動を覚えている。

5/14/2023, 1:40:09 PM

 指一つ(下らないもの)に気を取られて、肩や背(大事な箇所)を失う人を、これを狼疾の人と言う。

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