歯牙ない読者

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 近頃、私は気付いた事柄があった。其れを今から記していきたい。
 まず、馬鹿にされたくないからといって、尊大な態度をとるべきではない。己の能力・知力・才能の低度を、それによって実際よりも強大なものとして見せるのは、まさに虚勢である。そうするのではなく、まずは己の程度の低さを清く認め、反省するべきである。そして、周囲の人間を認めるべきである。周りが小人だからとて(それが事実、そうだとしても)、彼等を認めるべきだ。確かに、自己よりも卑賎な人間、愚鈍な人間には腰を低くするのが難しい。然し、自己の下らないプライドが邪魔して素直になれないでいるのは、彼等よりも鈍物に過ぎない。他者を馬鹿にして自らを驕るよりも、腰を低くして自らを磨く方が、余程も優れているに違いない。端から相手にしなかった彼等も、自分が知らないだけで、(或る分野においては)誰よりも光るものを持っているのではないか。その事に思い及ぶこと無く、端から相手にしない方が、かっこ悪いのではないか。よく知りもしないで、歯牙にもかけない事を問題にしない方が、目に余るのではないか。
 そしてもう一つ、私は、自分の情けない姿を他者に見せるのを、極度に嫌う傾向があるようだ。そんな人間であるために、心を許せる友人にも(意識的に)見せた事は更々ない(これも傲慢な自負心の所為に違いない)。そんな私が、人が変わったかのように、自身の未熟な箇所を見せることに、躊躇いがなかった事があった。その事についても考え、解った事がある。これは少し具体的な所を触れるのだが、自分が知らない分野を、恰も知っているように振る舞う事がある。「そんな程度で?」と、余り重大に思われないかもしれないが、知らない事を恥ずかしいと思う自分にとっては、恥ずべき点に変わりない(それでいて、不遜な態度をとるものだから、呆れたものなのだが)。このような態度をとっている事こそ、私が最も恥ずべき部分ではないのか?という点である。同じ事の繰り返しとなるが、己の程度を知り、周囲の人間を認め、反省と研鑽の反復をする事こそが、今の自分が為すべき事なのであるように思う。そして、これらの行為を根本から邪魔する、このプライドを捨ててしまうのが、良いのだろう。
 (これは別に読まなくてもいい。
 …人は老いるにつれて、その身に気品を纏うのだが、幼少期から落ち着いた様子でいると、周囲からは子供気のない様に見られるらしい。日が経つにつれて「気品がある」だの、「賢そうに見える」だの、を周囲の人間から言われると、私のように「事実、賢くなければいけない」と呪縛を掛けられてしまうような人もいるのだろうか?)

11/26/2023, 9:09:43 PM