歯牙ない読者

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 元来、私は他者の目を気にする気質があるようだ。今迄、どうして、その事に気がつかなかったのだろうか。思い返せば、幼少の時分は、まるで反対の性格、言うなれば、稚気溢れる子供の、それ特有の全能感による豪語とか、嫌に声量も態度も大きかった、自己中心的な部分とか、自分の存在意義を他者に示そうと、強引に努めていた時、そう、一切のデリカシーも、マナーも感じとれない所が一際、目立つような、そんな子供だった。にもかかわらず、時の経過と共に現れた、幼少期とは至って系統違いの性情、言わば、自嘲交じりに謙遜したり、人と距離感を置いて、時には交わりを避けたり、他者に与える不快感を忌避するが余り、言葉選びに時間がかかるようになったり…。加えて言えば、詮索される事を酷く嫌うようになり、自己開示が出来ない、つまらない人間になってしまった。
 何が一体、私をこうさせてしまったのだろう。そう考えていたある時、私は、一つの本を手に取って読んでいた。それは、この話とは何ら脈絡のない、確か、日本人の芸術観に関する本だったろうか。表現者は、他者が表現している自己をどう観るのか、というのを強く意識している、というような話だ。その中で、今でも時折、思い出す一文がある。曰く「表現するということは、何らかの意味において自己を見せびらかす事であり、自己顕示の行為である」と。その時、何度かその一文をゆっくりと読み返して、内容を咀嚼していた。何度か読み返すうちに、私はこれを読んでいて、ある一つの疑問が次第に浮かんできた。それは、私の気質についてだった。
 他者との会話の中で、いつも感じられることがあった。それは自分の一つ一つの、綿密な点における仕草や態度、そして、口から出した言葉の効能を気にする事だった。会話している瞬間においては、自分はその一切を気にもとめずに、その人が話している事について、集中していられる。然し、その後に思い返してみると、己の一つ一つの軽はずみな言葉を省みて、つくづく自分の不注意で、半端な不徹底さと、高揚から来る調子の変動によって、失礼な態度に出たり、気が緩んで不躾な仕草をしてしまう事に、幻滅の苦々しさに加えて、恥ずかしさや憤りも感じられた。この事から導き出せるのは、私が後の幻滅を忌避する余りに、今の快い歓びをも避けるようになって、感情を抑制する事に努めた結果が、この気質の正体だった事になる。
 無論、この性情が不幸なものであると、そう言いたい訳では無い。単に、私がこの気質に至るまでの過程に、どのような理由があったのか、それを突き止めたに過ぎず、加えて、それを記録に残しておきたかったという、それだけの話なのである。

3/23/2024, 11:59:21 PM