愛 − 恋 = 友情
持論です。
いつから声を押し殺して泣くようになったのか。
子供の頃の"泣く"といえば、呼吸ができなくなるほどに大声で泣き喚くことだった。
でも私たちはいつしか、それをしなくなった。
泣いているのを知られたくなかったのだろうか。
それとも感情よりも先に涙が溢れてくるようになって、声はもはや泣くためには必要ではなくなってしまったのだろうか。
どれだけ涙を零しても息を詰まらせても心からは何も流れていかない夜があった。
ふと昔を思い出して、わざと声を上げて泣いてみた。
自分の泣き声が聞こえた。
そこで初めて、自分が静寂の中で泣いていたことに気づいた。
自分が今まで泣き声だと思っていた、押し殺した嗚咽は、それはあまりにも小さかったのだ。
自分でも、自分が泣いていると気づけないくらいに。
大人になったら、泣き声を上げても誰も助けてはくれないから。
せめて自分は、傍観者でいるだけではなく、泣き声に耳を傾けてやるべきだと思う。
無気力で、どうしようも無い日々を送っていた。
一日の終わりに、洗濯物を干しに外へ出るその瞬間だけ唯一正気に返り、そこで初めて、昨日から一日の時間が経っていることに気づく。
物干し竿にハンガーをかけながら、ふと、このまま室内に戻らなければ頭がすっきりしたままでいられるのではないだろうかという考えが頭をよぎる。
だが結局、全て干し終わる頃にはそんなことは忘れ、涼しさを求めて部屋の中へ帰っていく。
完壁な生活とは存在しないわけで、そんなものはもう求めていないが、常に最低限ギリギリを保っている生活というのは、やらなければならないことを一つや二つ終わらせたところで完壁には近づかない。
当たり前の線引きさえ下げてしまっている暮らしは、まずマイナスを0にするところから始まるのだ。
寝る前に、少し悲しくなって、明日が楽しくなるように何か考えてみる。
美味しいもの食べたいなあと思った。
手に持っていたスマホにメモしてみる。
次にそれを見返したのは翌日の寝る前のことだった。
昨日の自分が無邪気で、まるで他人のようで、明日に希望を持っていたこと、それを達成してやれなかったことが悔しくて、涙ぐんでしまった。
ほんの小さな願い事すら叶えることは難しかった。
でもまだ、明日こそはと思える。
逆に、締切がないくらいがちょうどいいのだ。
明日も叶えられないなもしれないけど、
それでもまあ、いいか。
と思った。
ここへ来るのは、
人のぬくもりを求めている時のような気がする。
別に友達がいないわけでも、
挨拶を交わす人がいないわけでもない。
でも、自問の海を揺蕩って
陸地が見えなくなってしまった時に、
名前も顔も知らない人のぬくもりは
いかだのように息の付き方を教えてくれる。
共感すること、されること、
その静かな声に、一人ではないのだと思い出せる。
誰もが抱える深淵を、
他人事ではなく、同じ痛みとして分かち合いたい。
そんな想いで、日々作品と向き合っている。
これは最近発見した、
慣れてしまった風景に目新しさを感じる方法の話だ。
他人に勧めたことはないので効果は定かではないが、少なくとも私はこの方法を楽しんでいる。
余興程度にご覧いただければ、と思う。
まずその前に、風景に「慣れた」と感じるタイミングはいつなのか。
それは、風景、つまり場所を、
場所としての認識でなく、機能として認識した時
ではないかと思っている。
これは例えば、初めて訪れたショッピングモールでは
どこにどんな店があるのかとか、
駐車場にはどの道を通るんだっけとか、
空間を主体にして考えている時は、
場所を場所として認識していると言えるだろう。
逆に機能として認識した時。
何度も行った地元のショッピングモールへ行く時、
大概は行く目的が既に決まっており、
新しい何かを探すのではない。
買い物という行為を完了させるために
足を動かして品物を手に持ちお金を払う、
その時我々にはショッピングモールという場所の持つ機能面しか見えていない。
要は、場所を場所として再認識すれば良いのだ。
前置きが長くなってしまったが、方法はこうだ。
視界をキャンバスだと思うこと。
スケッチブックを構えた状態を想起するのが早いかもしれない。
この紙の上に今から、目の前の視界を絵に描き出していくとすれば。
場所はどこだっていい。部屋の中でもいい。
目の前を見ると、色んなことがわかってくる。
まず、真ん中には窓があって。壁際には机があって。
ベッドと床の色って同じなんだなあ。
天井に火災報知器あったの知らなかった。
あのラックって自分の身長よりも高いな。
ここからだと向こうの壁はずいぶん遠い、
あれ、椅子は目の前にあったのか…
こうしてじっくり見ると、
子供の頃に見ていた景色が、見えはしないだろうか。
毎日が未知と発見に溢れていた、眩しい世界を。
個人的には、視線をできるだけ動かさずに、
一枚の絵または写真として、
切り取った世界を認識すると、やりやすいと思う。
最後に、私は絵を趣味としているのだが、
絵を描く上でのプロセスに
「見えなかったものを見えるようにする」
というものがあると感じる。
物体の陰影をじっくり見ると、
意外な部分に光が当たっていることがある。
風景を目新しく感じる方法も、
このように、景色に意外性を持たせることで
成り立っているのではないか、と思うのである。
皆様の世界にも新たな発見がありますように。