人が亡くなった時、
あの人は星になったんだと言う。
星に例えるのって、すごく、お洒落だ。
星はまず、夜にしか見えない。
そのうえ晴れていないといけない。
私たちが星を見たいと思った日には
見られないかもしれないし、
その逆も然りだ。
星というのは実に気まぐれな振る舞いを見せる。
でも、こういった星の持つ不確定要素の多さは、
言い換えれば"自由"じゃないだろうか。
会えるかどうかは運次第、
私たちの意思には平気で反してくる。
故人と星を重ねた時、その共通項は"自由"なのだ。
そしてもう一つ、
人は忘れられた時に死ぬという言葉もある。
夜空はその実、
私たちが数えられる量を遥かに超えた、
光の届かない星で埋め尽くされている。
見えない星は、忘れられた人なのかもしれない。
もしくは、長い月日を経て、
故人を忘れなかった人が同じ場所に来たから、
探せるように光る必要がなくなったのかもしれない。
俗世にも、私たちにも縛られず、
自由に空を旅するかつての人を想う。
わかんないことだらけだね、世の中ね。
どうして一日は24時間なのか。
どうして太陽は眩しいのか。
どうしてタスクは積み上がるのか。
どうして夜は短いのか。
どうして何もしてないのに疲れるのか。
どうして周りが輝いて見えるのか。
どうしてこの鬱屈した日々に笑みを向けるのか。
どうして笑みを向けられるのか。
どうして生きているのか?
わからない。
わからない、けど、いいんだ。
答えがわからないってことは、
そもそも答えなんてないのかもしれないんだから。
"question"を"question"のままにしておくのがいけないことだなんて、
そんな決まりはなかったんだね。
常に答えを探さなくたって、人生やっていける。
旅の終わりにテストなんてないからね。
だからいいよ、
ちょっとくらい、無責任に生きるのは。
私が初めて夢の中で空を飛んだ時、
背中には翼が生えていた。
当時小学生だった私の翼は、桃色の立派な翼で、
さらには表面に宝石だとか音符だとか、
そんなものがついていた。
私はその翼を使って、初めて飛んだ。
しかしそれは、地面からたった数センチ浮いただけの
粗末な飛行、もはやただのジャンプだったと言える。
私の翼は重すぎて、ただの飾りとしての機能しか
持ち合わせていなかったのだ。
それから幾度も飛ぶ夢を見た。
翼を腕に添わせて羽ばたいてみたり、
箒、時にはちりとりを使ったりすることもあった。
そうやって、色んな方法を試して辿り着いた答えは、
翼を使わないことだった。
水中のようにふんわりと浮かび、
壁を蹴り空気をかいて、空を舞う。
そうすると、いとも簡単に私の体は浮き上がるのだ。
翼は、飛ぶのには向かなかった。
私たちは空を飛ぶことを想像する時、
つい翼を広げる姿を考えてしまいがちだ。
けれど、それに囚われる必要はなかったのだ。
空を飛びたいなら、好きな方法を探せばいい。
固定観念やルールから外れることは、
必ずしも失敗ではないのだ。
そうは言ったものの、
私は翼で飛ぶことに憧れている。
それに向けて試行錯誤するのも、
また自由なのだろう。
理想郷に、漠然とした憧れはある。
けれど、いざ辿り着いたとして、どうだろう。
心が震えるほどの感動は、そこにあるだろうか。
理想郷が理想郷であるために必要なもの。
それは、自信の持つ理想が何なのかを
事前に思い描くことではないかと思う。
話は少し変わるが、大人になると、
好きな時にケーキが食べられるようになる。
カフェで注文したり、コンビニスイーツを試したり。
けれどその突発的に食べるケーキは、
子供の頃食べた誕生日ケーキより味気ない気がした。
あるとき、こう思った。
子供の頃の私が食べていたのは
ケーキへの期待だったんじゃないか、と。
私は少し、期待の仕方を忘れてしまった。
それは時に人を傷つけるし、
それに胸を踊らせるような時間もなくなった。
期待するということは楽しく、
同時に私の精神を削いでいく、
諸刃の剣に変わってしまった。
でも、理想郷なら。
夢の中みたいなまっさらな世界があるなら、
好きなものをなんだって並べられる。
今すぐ、もはや永遠に行けない場所だとしても、
想像のうちに生きるそれは、宝物になりえる。
死んだあとに行けたらいいな、くらいでも、
期待ができるものではないだろうか。
「人生には二つの悲劇がある。
一つは願いが叶わぬこと、
もう一つはその願いが叶うこと。」
こういう言葉が、とある戯曲の中にあるそうです。
私は今日初めて知りましたが、
どうにも好きになりました。
願いが叶わないのは辛いことです。
どうしたって叶わないとわかってしまったら、
とても悲しいのです。
でも、叶うかもしれない願いに向けて
進んでいるその道中は、
生きている意味だとか未知への期待だとかで
希望を持てる日々でもあるのです。
そういう意味では、願いがまだ叶っていない段階には
それなりの幸せがあると言えるのでしょう。
こういう解釈が一般的なのかもしれませんが、
私はこの言葉が、
願いを叶えることのネガティブさを
肯定している部分が気に入っているのです。
悲願を達成したとして、
喉元過ぎれば熱さを忘れるように、
一瞬、後悔する瞬間があるのです。
頑張って行きたかった学校に合格したけど、
勉強が難しくて嫌になってしまう瞬間のような。
過去の自分や応援してくれた人に失礼な気がして、
そんなこと考えるものじゃないと、
思考に蓋をしてしまうのです。
この言葉は、そんな私を、
認めてくれる言葉のような気がしました。
願いを叶えるということは
幸せを掴むことであると同時に、
新たな困難へ挑戦する権利を
得ることなのだと思います。
大小を考えなければ、日々は願いの連続です。
叶った願い、叶っていない願い、
その両方に喜びつつ嘆きつつ、
心のままに生きていこうと、
そう思える言葉でした。