これは最近発見した、
慣れてしまった風景に目新しさを感じる方法の話だ。
他人に勧めたことはないので効果は定かではないが、少なくとも私はこの方法を楽しんでいる。
余興程度にご覧いただければ、と思う。
まずその前に、風景に「慣れた」と感じるタイミングはいつなのか。
それは、風景、つまり場所を、
場所としての認識でなく、機能として認識した時
ではないかと思っている。
これは例えば、初めて訪れたショッピングモールでは
どこにどんな店があるのかとか、
駐車場にはどの道を通るんだっけとか、
空間を主体にして考えている時は、
場所を場所として認識していると言えるだろう。
逆に機能として認識した時。
何度も行った地元のショッピングモールへ行く時、
大概は行く目的が既に決まっており、
新しい何かを探すのではない。
買い物という行為を完了させるために
足を動かして品物を手に持ちお金を払う、
その時我々にはショッピングモールという場所の持つ機能面しか見えていない。
要は、場所を場所として再認識すれば良いのだ。
前置きが長くなってしまったが、方法はこうだ。
視界をキャンバスだと思うこと。
スケッチブックを構えた状態を想起するのが早いかもしれない。
この紙の上に今から、目の前の視界を絵に描き出していくとすれば。
場所はどこだっていい。部屋の中でもいい。
目の前を見ると、色んなことがわかってくる。
まず、真ん中には窓があって。壁際には机があって。
ベッドと床の色って同じなんだなあ。
天井に火災報知器あったの知らなかった。
あのラックって自分の身長よりも高いな。
ここからだと向こうの壁はずいぶん遠い、
あれ、椅子は目の前にあったのか…
こうしてじっくり見ると、
子供の頃に見ていた景色が、見えはしないだろうか。
毎日が未知と発見に溢れていた、眩しい世界を。
個人的には、視線をできるだけ動かさずに、
一枚の絵または写真として、
切り取った世界を認識すると、やりやすいと思う。
最後に、私は絵を趣味としているのだが、
絵を描く上でのプロセスに
「見えなかったものを見えるようにする」
というものがあると感じる。
物体の陰影をじっくり見ると、
意外な部分に光が当たっていることがある。
風景を目新しく感じる方法も、
このように、景色に意外性を持たせることで
成り立っているのではないか、と思うのである。
皆様の世界にも新たな発見がありますように。
もう二度と、という言葉は、怖い。
この言葉を使う場面を想像してみてほしい。
もう二度と、手伝ってやらないぞ!
もう二度と、あんな目には遭いたくない。
もう二度と、このようなことがないように…
なんて否定的、なんて暗い!
怒り、恐怖、懺悔…
「もう二度と」は常に、
負の感情の枕詞として立たされている。
二度もあってほしくないような事柄を伝えるための
言葉である以上仕方がないが、どうも苦手な表現だ。
みなさんはこの言葉を認識した瞬間に、
体が僅かな緊張を覚える感覚はないだろうか…
曇り、それは最も曖昧なもの。
どう転ぶかは時間が経たないとわからない。
空を見て、ああこれは薄い雲だ、きっと晴れるぞと
思っても、後からもっと厚い雲を連れてくる。
笑顔も同じだった。
少しだけ曇った笑顔を見て、
寂しそうだなあとは思ったが、
寂しそうだなあと思うことしかできなかった。
寒い時期はいいですね、
キットカットを割った時ぐにゅっとしなくて。
人が亡くなった時、
あの人は星になったんだと言う。
星に例えるのって、すごく、お洒落だ。
星はまず、夜にしか見えない。
そのうえ晴れていないといけない。
私たちが星を見たいと思った日には
見られないかもしれないし、
その逆も然りだ。
星というのは実に気まぐれな振る舞いを見せる。
でも、こういった星の持つ不確定要素の多さは、
言い換えれば"自由"じゃないだろうか。
会えるかどうかは運次第、
私たちの意思には平気で反してくる。
故人と星を重ねた時、その共通項は"自由"なのだ。
そしてもう一つ、
人は忘れられた時に死ぬという言葉もある。
夜空はその実、
私たちが数えられる量を遥かに超えた、
光の届かない星で埋め尽くされている。
見えない星は、忘れられた人なのかもしれない。
もしくは、長い月日を経て、
故人を忘れなかった人が同じ場所に来たから、
探せるように光る必要がなくなったのかもしれない。
俗世にも、私たちにも縛られず、
自由に空を旅するかつての人を想う。