それは空に恋をしたようなものだった。
最初から絶対に手が届かないと分かっていたから。
その想いは自覚した瞬間に諦めなければならなかったが、それですぐに忘れられるわけもなく、時間が癒してくれるのを待つことしかできない。
空っぽになった恋は未だにその形骸を留めている。
夜の海が好きだ。
昼間の喧騒に紛れると聞き逃してしまうような、水面の襞から響く微かな音も拾えるような気がするから。
もし静寂に音というものがあるならば、きっとこのようなさざめきなのだろう。
空想の入り口に、よくカーテンを使った。
それはお姫様のドレスだったり、騎士のマントだったり、王様の部屋の緞帳だったり、砦に掲げられた旗だったりした。
長じて新生活を始めるにあたり、家具をあれこれ用立てなくてはならなくなり、家具屋に何度も足を運んだ。カーテン売り場も覗いた。色、柄、長さと、種類も豊富なカーテンがずらりと並ぶ。選びながら、これから始まる生活に思いを馳せる。あの頃とは異なる、現実と地続きの空想をカーテンの陰に垣間見る。
ふわりと翻る布地は、いつだってちょっとした夢を見せてくれる。
近年は梅雨明けを境に唐突に夏になってしまうものだから、空気感から夏の気配を感じるいとまがない。躑躅が咲き、紫陽花が咲き、花菖蒲が咲くその移り変わりの中に気配を探して追っている。
義母と最後に交わした言葉が何だったのか思い出せません。
スピーカーをオンにした夫のスマホを通して、お互いごくありふれた挨拶の口上を述べたはずです。何気ない会話の範疇を出ませんでした。
まさかその三日後に逝ってしまわれるなんて、夫も私も思ってもみませんでした。確かに入院から二年半以上経ってはいましたが、今となっては最後になってしまったスマホでのやり取りも、特に違和感を覚えることなく普段どおりと思えたので余計に信じられない気持ちでした。
近々またお見舞いに伺う予定でもあったし、また普通にお話しできると思っていたので、義母との最後のやり取りは、当たり前だと思っていた日常の中に埋もれてしまったのでした。
ただ、最後のやり取りで印象に残っている声はあります。
生後四か月、喃語がわずかに出るようになったばかりのわが子、彼女の孫の声をスマホ越しに聞いて、嬉しそうに何度も名前を呼んでくれました。
繰り返し繰り返し、孫の名前を呼ぶ弾んだ声。未だにふと思い出すのはあの声ばかりです。