作り上げた物語の向こう側に、世界の向こう側に、作り手にさえ見えていない世界がある。あの主人公の幼く丸い額に、ふくとした頬に口づけて、微笑む母の姿もあるのだろうか。
しあわせに、どうかしあわせにと願いながら読み進める紙片の毎秒毎秒に心の細胞が死んでいってしまう気がする。悲しいお話でなくても泣ける物語もあるけど、あんまり心を動かしてしまうと痛いから。
バッドエンドの主人公のあとにおおきく背伸びをして進み出す人がたくさんいるんだろうと思う。なんだかんだ大丈夫なんだろうと思いながら最後にふっと死んでしまう終わりに、キスを落としていっそ閉じようと思う。
此の世をば、我世とぞ思って生きたいものだ。今から数えて千年余り前のときに、事実上そういうふうに生きた人がいたのと自分はなんにも変わらない。よね?
これからはじまる生前がもし暇だったらでいいんだけど、教科書に載るための努力をしてみようかな。たぶん命を賭けた武勇よりも、永遠の調停のほうが難しいんじゃないかって思うから、世界を救うための戦いがしたい。願わくば、たった一人で。
かつての威光と生存権を賭けた争いがはじまる。黒死病のときにねずみを殺しきれなかったみたいに、人間は様なく生き残り続けると思うんだ。ドラマチックに死にゆくチャンスがなくても惨めな爪痕を遺したなら、もしかしたら幾千年先でも、残るのかなぁ…?
遠いところへ夢を見に行こう。まだ見えない未来をぼうっと手に掴むみたいに彷徨わないと。亡霊になったとき道に迷わないくらいには世界に慣れてしまう歩行術だけ覚えよう。街へ行った回数を覚えている?僕は覚えていないけど、君が覚えていたらどうしようって思うよ。世界の理不尽を嘆いていたら時間が尽きてしまいそうだから、店先の甘い匂いで誤魔化すしかないか。新しいパン屋さんができたんだって。パン屋さん好きなんだよね。
家の前の曲がり角の前のあたりでいい香りがするのがなんでかなって思ってたんだけど、それは結局コインランドリーだってことがわかったよ。なんで気付かなかったんだろう。染み付いた習慣みたいにもうなくなったテナントを訪ねている毎日もいつか忘れてしまうんだろうな。
街へ行こうよ。歩き慣れて飽きた街を自分の頭の地図に変えるみたいに何も見ないで、忘れてしまった日常の欠片集めにいこう。辿り着かないで。遊園地のお気に入りのコースターに乗ってすぐ帰る人みたいだよ。どこにも辿りは着かないで、ここに居続けないで、悲しまないで。
優しさの温度が源泉掛け流しじゃないといいな。だっていつか枯れてしまったら悲しいからさ。善意が何億もの邪念でかさ増しされてくれていたらいいね。きれいなものばかりだと勿体ないから。世界ってたくさん痛ましいことばかりでできているようだし、ちょっと世界平和に寄与しようか。お墓にいっぱいお花が咲いていて嬉しそうな顔がかわいいね。文字の一つも読めないまんま生きたらいいよ。
痛みを訴えて強さを上告してみよう。サンタさんがまだ来てくれるのなら、ください。知らせないことを、読ませないことを、壁の内側に匿ってしまう弱さを、優しさと呼ぶ権利とかを。
傷つけ合うことが真理だっていうのではなく、そこに痛みを感じる崇高さを喜んでみたいね。みんな人間みたいだ。隣の席の人に無邪気に笑いかけるような、導火線を切るみたいな華やぎが、どうか本物でありませんように。
明けない夜を連れてくるよ。祈りに似たもっと無様な何かで瞼を覆って、痛々しさを噛み殺した。萎れない花があるだろうか。砕けない星があるだろうか。
その向こうで無邪気に笑っていた誰かは、そのままここで、死ぬのだろうか。軽やかなステップ。重ねた手の平の温かさ。恥ずかしそうな笑顔のピントがずれてしまわないように。美しいまま終わればいいのに。
灰色がかったフィルムと、もう照準の合わせ方を忘れ去られたカメラで世界のどこまでが写し取れるだろうか。運命が自らを嘲るように笑った気がした。放してしまえば崩れ落ちる思い出を、眠りにつく一瞬前のゆらめきを。もう一度。もう一度。
震え声の旋律。涙のダンスホール。風に靡く髪と広がるスカート。事切れてはじまる回顧録。さあ、私に身を委ねておくれ。