いつだったかな。喫茶店に行ったんです。そこには雑貨も置いてあって。手編みのセーターが、7500円でね。安いね、って話してみたくなったんです。そんなに安くなくっても、いいとも思ったんですが。
喫茶店はいい香りがしましたよ。コーヒーの香ばしい感じもあるけれど、アロマの精油も取り扱っている店でしたから。感じる、って、どうして大事なものです。忘れがちだけれど、あんまり自分の頭の中に閉じこもっていると、置いていかれてしまうから。
素敵なものを見て、いつだって素敵だなあって思えるわけじゃない。精一杯、そうあれるように足掻いているだけだからね。
ね、手作りってすごいですよね。作った誰かの、時間と手間をそのまま手にするんです。向こう側は、まだ、秋に見える。もしかしたら夏だったり、春だったかもしれないけれど。
「奈落」と書いてある紙を拾いました。太いゴシック体の文字でした。手のひらの半分に収まるくらいのちいさな紙でした。
途方をなくしてしまったようで、つまりは大人でも迷子になるんですね。いつもなにか苦しそうだった。解答欄の空欄は埋まりましたか。
果てまで行くの。って君が言うから内心困った気持ちになりました。果てなんて無いのに。宇宙は光より早く拡大していて、人間たちがどれだけ走ろうと追いつきようもない。電車を追いかけるより無謀です。あるいは、もしかしたら、やさしい眠りにつくよりも。
とはいっても、君は電撃を駆け上っていって、それで、一体どこまでいくの。君のために、小さな町を作ってあげますよ。作るのはパン屋さんが好きだけど、君は食べるのがあんまり好きじゃないね。よだかではないのだから、どこまでもいけるわけじゃない。仕方がないから、帰っておいで。
言葉というのは文化の副産物のようなもので、つまりは届くとは限らないんですね。底が抜けたコップには、いくら注いだって意味をなさない。奈落は君の名前だったかもしれません。最後に小さな町も、君の奈落に落としておくね。
公園の土手の敷石のそのなかに、色のある光沢を見つけて立ち止まった。それをじぃとみてみると、なんの瓶飲料の欠片なのか、少し濁ったような綺麗な硝子片だった。
後ろから小さな子供が駆けてくる。立ち止まってそれを眺める自分の前に飛び出し、しゃがみこみ、これを拾う。「ああなんてきれいな硝子なんだろう!宝石みたいだ!」
子供はあたりを見回し、このきれいな石のいくつかあるのを発見する。そうして手のひらに拾い集める。子供の手のひらの中、捨てられたがらくたの硝子片が宝箱の中に招かれる。敷石の中に微笑むような温度が見える。かつての子供がそれを眺める。手を伸ばして、ひとつ、拾った。
しんと冷え込んだ空気を肺に取り込む度に、つんとした空虚さが胸の中に木霊した。持久走の日に学校に行きたくなかったことを思い出す。心は特に、あのときを通り過ぎてはいないけれど。
いっそ足の一本や三本でも折れてしまえばいいと思っていたけど、そうしてなくてよかったな、って今でもあまり思えていない。嫌だったなあ…を、あと数十年すれば笑うようになるのだろうか。秋風が指の先を撫でる。手袋はいつも無くすからひとつも持っていない。今年こそを繰り返して今度こそ、って…また失くしちゃうんだろうか。瞬く間に消えて行く季節が木々の色をひっくり返していく、その様子がちょっと愉快だ。
歩いてきたんだね。こんなところまで歩いてきたんだね。
飛べないことを隠すためにどれだけ痛めたんだろう。
貴方の望む、"いいよ"を用意できなくってごめんね。
その人じゃなくて悪かったね。どうしようもない挫折や諦めに手を引いていってやれないことを、たぶん弱さだって思うけれど、飛べない鳥だって多いよ。
私は、別に、いいよ。追いつけなくたって。
一人は好きだな。そんなことで貶める言葉を口にしなくて済むんだって思うから、一人は好きだよ。
こんな生き物がここに居る意味があるといいなと思うから、さよならはまだ、言わないことにした。今更だけど。